デジカメで蛍に挑む

"firefly"

Photo: “firefly” 2011. Tokyo, Sony α900, Carl Zeiss Planar T* 85mm/F1.4(ZA)

郊外の川に、蛍が放たれているらしい。そういえば、本物の蛍を、多分見たことがない。フィルム時代に蛍を撮ろうなんて思わなかったが、デジタルなら一枚ぐらいはいけるかも!?


来てみれば、やはり蛍というよりも、人を見に来たよう。それでも、「目」を澄ませば、数条の灯りを見つけられる。デジカメもそれなりに人間の網膜に近づいたか。


川面に、光が飛んでいく。そこまでは、撮れないようだ。

日本はどうなるのだ

Chinese ship

Photo: “Chinese ship” 2011. Kowloon Peninsula, Hong Kong, Sony α900, Carl Zeiss Planar T* 85mm/F1.4(ZA)

二月。香港に出発する直前、日本の GDP が中国に抜かれた、という報道を聞いた。そんなことも有って、僕は少し複雑な気分で香港に降り立った。

初めて訪れた香港は、アジアパシフィックの交易の中心地として、今も順調な発展をしているように見えた。教育の有る層は皆英語を話し、それでいて容赦ない漢民族的な、しかし中国本土とはまた違った西欧的な活気が、満ちていた。ビルは高く、あらゆるところが工事中で、人がせわしなく働いている。

日本は彼らに追いつかれ、追い越され、そして置き去りにされるのだろうか。日本の進む道は、ここまでなのだろうか。日本では、僕も、僕の周りの人も、色んな人が、多かれ少なかれそんな思いをどこかに持っているような気がする。


香港に一週間滞在し、帰国した。深夜、成田空港から TCAT に向かうバスの窓から、美しく舗装された高速道路と、丁寧に維持された街並みを見て思う。日本、これが、衰退していく国なのだろうか?と。

あるいは、そうだとして、これ以上我々に何が望めたのだろう。我々と我々の祖先が築いたこの国の形は、沢山の問題はあるにしても、世界屈指の生活レベルを実現するまでになった。この小さな国に、それ以上、何が望めただろう。

その思いはしかし、3月11日以前のことだ。


あの日から、日本の歴史は変わってしまった。災厄の日から二ヶ月が過ぎて、東京では日常が戻りつつある。人々は職場や学校に戻ってきた。テレビは、いつものばかばかしい番組を垂れ流し、スーパーの棚も、僕の Outlook の予定表も、いつも通り埋まっている。

それでも、3月11日以前と、以降では、日本の形は永遠に変わってしまった。あの日から、別の世界に紛れ込んでしまったように、運命の道筋が、ねじれてしまったかのように。それでも、僕たちは生きていかなくてはならないし、働かなくてはならないし、電車に乗ったり、ご飯を食べたり、愛し合ったり、罵りあったり、とにかく、いろんな事をしなくてはならない。気の遠くなる事だが、この現実に折り合いをつけていかなくては、ならない。

多分少し、生きることのリアリティーを取り戻した。命の危険にさらされて、いや、気がついて、初めて。

怒らないこと

Buddha statue

Photo: "Buddha statue" 2009. Kamakura, Japan, Sony α900, Carl Zeiss Planar T* 85mm/F1.4(ZA), cRAW

僕は自己啓発書みたいな物が、非常にキライだが、それでも嗜む程度には読んでいる。メソドロジーみたいな物も、あまり信用していないが、研修を受けたり(あるいは、受けさせたれたり)している。

しかし、いろいろ立派な本を読んでも、メソッドを身につけても、では日々に普遍的に役に立つかというと、そうでもない。そもそも万能のメソッドなど無いと言えばそれまでだが、言葉遊びではないもっと本物は無いのか、そんな思いがある。


どんな立派なメソッドも、実際に現場では嫌いな相手に通用しない、理解されない。リスクを分析して、これは100%間違っていると思っても、現実の自分の立場では逃げたり拒否できるオプションが無い。失敗が見えているのに進まなければならない失望感。

あるいは、うっかり入ったやる気のない中華料理店で運ばれてきた餃子は、冷たく冷えてマズイ、無念。この怒りと理不尽を、納得できるように説明するメソッドはどこにある?そんな基本的な事にさえ、対処できないメソドロジー。

もっと基本的な事が、大事なんじゃないか。もっとシンプルな何かが必要なんじゃないか。


「怒らないこと(アレボムッレ・スマナサーラ著)」、は文字通り怒らないことについて書かれた本だ。怒らないことの意味、怒らないことの重要性、怒らないことによって得られること。怒ることによって失うこと。ひたすら、怒りについて書いてある。怒っても一生、喜んでも一生。世界の有り様は、自分のとらえ方だけに依存する。これは、たったそれだけの事について書かれた本だ。

怒らないで済めば、これほど良いことはない。では、どうすれば怒らないでいられるのか。この本にはあっさり書いてある。怒らないためには、ただ、「怒らない」のだと。方法も何も無い。怒らない、それだけ。押さえつけるのでも、気分を変えるのでもなくて、怒らない。


怒ったらあなたは一番愚かな人になる。一番不幸な人になる。抑えるのでも、誤魔化すのでもなく、ただ怒るな。怒らないただ一つの方法、それは怒らないことだ。

この本は、おおまかその一行に集約できる。

自分が侮られていると感じるための怒り。誰かをうらやましく思うことの怒り。自分ばかりが酷い目に遭っているという怒り。それが結局は自分を損なう、愚かな事だと、著者は語る。(著者は僧侶として釈迦の教えに従ってこの本を書いているので、釈迦の教えはそうなっている、と言うこともできる)

怒り続けても、それを救ってくれる人は、多分現れない。導くことは出来るかもしれないが、誰か他人に救えることではないのだ。自分が気付いて、怒りの炎を消して初めて、人は自分の人生を生きることが出来る。


僕は、自分がこの数年で随分変わったなと思う。仕事に対する姿勢も、人に対する見方も、なにより自分自身に対する捉え方が。最近僕を知った後輩達は、

「xxさんが怒るなんて、あんま想像つかないですねー」

と言う。昔から僕を知っている人ならば、上司やらなんやらに噛みついている僕の姿を見慣れていたのではないかと思う。


人は変わるし、もっと楽に生きることが出来るんだと思う。この本が、全てを変えたと言うつもりはまるで無い。むしろ、こうかな?と思っていた事の答えが、まとめられていて、それを復習したような気分になる本だった。いや、自分にとって身になる本というのは、たいていはそういうものなのかもしれない。