とりあえず、帰ってきた

Photo: 2001. Japan, Nikon F100, 35-105mm F3.5-4.5D(IF), Fuji-film.

Photo: 2001. Japan, Nikon F100, 35-105mm F3.5-4.5D(IF), Fuji-film.

とりあえず、帰ってきた。

フィルムは、11本使った。まだ、現像には出していない。都会では、緑色の光を捕まえるのに、少し忍耐がいる。島では、ファインダーを覗けば、いつでも緑色の光が満ちていた。

北緯30度、黒潮の通り道に位置する屋久島は、島の中心部に聳える 1,000m以上の山々に雲を頂き、無数の川が流れ落ちる水の島だ。足許の苔から、頭上の樹冠に至るまで、多様な動植物を、豊富な水が支えている。

その屋久島で、僕はいろんなことを考えた。のではなくて、何も考えなかった。少なくとも、考えるべきことは、いつもより格段に少ないように思えた。この島の数日間で、頭の中の温度が下がったような、そんな気がする。


島の海岸線には、ハイビスカス(らしきもの)が咲いていた。海は、魚の背中のようにピカピカと光っていた。太陽が、突堤でテトラポッドを観察する我々の背中を焼いた。穏やかに、夏が暮れていた。

山には、秋が来ていた。山腹を走るトロッコの線路には、少しだけ色づいた落ち葉が舞っていた。鹿が、冬支度をするかのように、いそいそと草を食む。 最初、鹿を珍しがった我々も、直ぐに彼らの居る風景に慣れた。標高1,500m を超える屋久島奥岳を眺めると、寒々とした霧につつまれていた。

僕は、島で数日を過ごし、山に登り、突堤を歩き、生まれて初めて流れ星を見た。へとへとになって登った山の中腹で、久しぶりに水が美味しかった。


週末。足であるカローラのバンから降りると、空港のカウンターで帰りのチケットを受け取った。昨日、JAS の Web サイトで買っておいたのだ。屋久島と Web、滑稽かもしれないが、島の情報に関して言えば、一番あてになってのは Web だった。


ウンザリするようなボロいYS1(当然プロペラ)に乗せられて鹿児島へ。直ぐに乗り換えて、羽田へ。屋久島から羽田へは、正味3時間程しかかからない。近いのだ。まだ「夏です よ!」という空気の漂う屋久島空港から、乗り継いで降り立った羽田。どんよりと曇って、小雨が吹き付け、しかも寒い。とにかく、寒い。

愚かにも、というかそれでも用心して Tシャツの上に、半袖を着ていた僕は、帰りの電車の中で、なんとなく浮いていた。留守をしていたのは、ほんの数日だったのに、皆、ちゃっかりと「秋ですねぇ」という格好をしているではないか。

少しおいて行かれたような、そんな気分。

注1:都会で頑張って緑を探してみました。なんかの葉っぱです。
注2:テトラ‐ポッド [Tetrapod] (「四つ足」の意) 4面体の頂点をそれぞれ先端とする4本の足から成るコンクリート塊。防波堤や海岸堤防などを保護する。商標名。[株式会社岩波書店 広辞苑第五版]
注3:屋久島の気候は独特。黒潮からは、大量の水蒸気が発生し、2,000m近い屋久島の山々にぶつかって、大量の雲を発生させる。このため、屋久島の山には、年間10,000mmと言われる程大量の雨が降る。また、2,000m近い標高差により、麓の亜熱帯から山頂の亜寒帯に至るまで、ほぼ日本列島を縦断するに等しい気候変化が、一つの島の中に存在する。

9.11

真っ青の空に、オレンジ色の炎が禍々しく燃え上がった。深夜、何人かで久しぶりに酒を飲みに行ったクラブのテレビには、いつものカラオケ画面ではなく、崩落する瞬間の貿易センタービルが繰り返し映し出されていた。

一見、自分たちにはなんの関係もないように見えて、この日が歴史を変える一日になると、なんとなく感じた。漠然とした不安感と、冷たい興奮が漂っていた。
「とにかく、そうめんを喰おう」
「そうそう、とにかく食べないと」
「ゴマ取って」
「むむ、うまいね」
ズルズル。
「うんうまい」
ズルズル。

クラブの若いママがつくった、たぶんこの夏最後のそうめん。(この店が、そうめんを出すとは知らなかった)ベネツィアン・グラスに盛られたそうめん。
「この日に、そうめんを喰ってたこと、きっと忘れないだろうなぁ」
ズルズル。


悲しみは、たやすく利用されて、憎しみへと転化される。悲しみが産み落とした憎しみを、誰が救ってあげられるというのか。”AMERICA UNDER ATTACK” というインポーズが入っていたCNNの画面は、ここ数日で、いつの間にか “AMERICA’S NEW WAR”に変わっている。


「映画みたい、いや、映画どこじゃない」

と誰かが言った。

映画というのは、いつから、そんな血なまぐさいものになったのか。人の想像力は、今や暴力と憎しみに満ちているのか。

僕は、人が死なない物語を書きたい。

注1:歴史を変えるという意味では、この事件は、僕の夏休みの旅行先をトルコから屋久島に変えてしまった。まあ、ささやかなことではあるのだけれど。

懐かしいデモ

反戦デモとか、戦争責任に関する討論番組とか、そういうものを見かけると、真剣にどうこう思うというよりも、「おお、あいかわらず、やっとるなぁ」となにやら懐かしい気分になる。

それが、日米安全保障条約とか、そういうものを大学時代に専攻していた人間の気分だ。


「今日電力会社の前を通ったら、反原発のデモをやってたんですよ」
「はぁ」
「なんか、懐かしかったですねぇ」

それは、核物理学を専攻していた人間の気分らしい。

注1:大学時代に、反戦デモをしていたわけではない。
注2:作者は全共闘世代ではない。
注3:戦争とか原発とか、この手の問題は、意見の相違ではなくて、立場の相違が原因なので、議論ではなく交渉でないと決着は付かない。そういうことに気付いてしまうと、かなり白ける。
注4:他にも、流体力学とか、心理学とか、ロシア美術とか、AVのモザイク職人とか、エンジニアのバックグラウンドは多様だ。