夏の羊はドッペルゲンガーの夢を見るか

Photo: rabbit brothers 2010. Tokyo, Japan, Ricoh GR DIGITAL III, GR LENS F1.9/28.

Photo: "rabbit brothers" 2010. Tokyo, Japan, Ricoh GR DIGITAL III, GR LENS F1.9/28.


ビアバーのトイレの扉を潜るとウサギ。

「よっ」
「こんにちは」


あ、ウサギだ。


「最近よく来るね」
「ビール美味しい?」


ん?二回しか来たことないよ


「もっと来てるさ」
「そっくりだよ」


え、そんなバカな


「夏はね、そういう似たのが出るんだよ」
「知らないうちにね、そっくりの自分がね」


なんか気味悪いな


「なんてことないよ」
「ビール飲んでるだけだしね」


なんだそうか、じゃあ気にしない


「でも、気をつけろよ」
「財布のお金減ってるでしょ、知らないうちに」


俺が払ってるの?そりゃないよ

WordPressは人の文章を変えるか

WordPress に完全に切り替えて、三ヶ月。

退路を断ったというのもあるし、これ以上、手動でコンテンツを維持し続けることがもう無理になったというのもある。


以前の羊ページは blog と手動更新の静的ページを分けていたのだけれど、その区分けを無くした。昔の記事が合わせて 1,200程あったのだけれど、それも一緒にしてWordPressに移行してしまった。自分なりに、blog と静的ページは書き分けていたつもりだったのだけれど、その垣根を取り払ってみると、かえっていろいろ面白い気がした。

同時に、地域で分けていた旅行記も、WordPress のタイムラインの上に並ぶようになった。カテゴリという形で、旅行記の体裁は残るけれど、年月日の流れの中で、旅行記を把握することもできるようになった。自分の 15年を、そのような角度から俯瞰するというのは、想像以上に面白い作業だ。

道具によって、人の文章は変わるのだろうか。実際にやってみて、変わる、それが今の感想だ。


先週、MIT メディアラボの石井さんの講演。最後の Q&A の中の、「表現されていない思考というのは、存在しないと同義だ」という言葉が印象に残っている。僕の個人的な意見は又違うのだが、そこまで厳しく捉えるか、ということに感心し、戦慄に近い印象も覚えた。Demo or die. と言われるメディアラボならでは、といえばそれまでだが、表現することというのは、とにかく出してみることだ、というシンプルなメッセージだと思う。

WordPress のような CMS は、HTML をカリカリ書くのに比べると、publish することに対する敷居が低い。僕はどちらかと言えば、完成度の低い文章は出したくないし、気後れしてお蔵入りにした文章も今まで数知れない。しかし、表現するのであれば、完成度とか、わかりやすさとか、そういうものにはやはり拘泥してはいけないのかもしれない。

岡本太郎とか、そういう人も著作では同じ事を言っている。まず、自分の表現をしてみろ。


WordPress の更新作業の手軽さと、デザイン変更の容易さは、「なんとなく更新できてしまう」という環境を提供する。編集画面のエディタさえ自分好みにカスタマイズ可能なのだ。それによって、更新頻度やコンテンツの重さ、のような物は明らかに変わった。いままで時期を見計らって寝かせていたようなトピック、あるいは、形になりきっていないような物でも、特に恐れることなく publish するようになったのだ。

変わった事は良かっただろうか?少なくとも、必要ではあった。それは確かだ。

ドン・ジョンソンの床屋

Photo: shadow 2010. Tokyo, Japan, Ricoh GR DIGITAL III, GR LENS F1.9/28.

Photo: "shadow" 2010. Tokyo, Japan, Ricoh GR DIGITAL III, GR LENS F1.9/28.

この街に来て、もう何年かが経った。
新しい街で、なにより困るのは、髪の毛をどこで切るかだ。この街に来て、やはり、まず困った。放っておいても、髪の毛は伸びる。


ある平日の午後、僕は意を決して、界隈の理容室に入ってみた。僕が今住んでいるのは、超都会と超下町が、川や運河を挟んで入り組む、ちょっと複雑な地域だ。下町界隈を歩いていると、昭和な感じの理容店は結構ある。しかし、白衣を着た年配の店主が、植木に水をやりながら暇を潰しているような店は、いくらなんでも敷居が高い。そこで、ちょっと前から、目をつけておいた、もう少し今日的というか、昭和から少しは前に進んでいそうな店を選んだ。

平日と言うこともあって、店はガラガラ。というか客は居なくて、オヤジが一人でテレビを見ているだけだった。しかし、店内の雰囲気は表で想像したのとは、何かが違う。なんというか、昭和ではないが、平成でもない。80年代的お洒落さに満ちた空間、つまり「マイアミ・バイス」であり、より現実的に言うのであれば「あぶない刑事」のテイストを感じる。


オヤジは長めの金髪に、トレーナー姿である。その、20年後のドン・ジョンソンは、テレビを消すと、僕のために横浜銀バエみたいな謎のBGMを、でかいラジカセでかけてくれた。ご厚意は嬉しいが、更に落ち着かない。「短めで」と注文するのが限界だった。世間話をすることもなく、散髪されていく。

暫くして、オヤジに「どうぞ」と言われて、僕は一瞬何のことだか分からなかった。つまり、頭を洗うためにかがめ、ということなのだ。屈んで洗髪されたのは、いったい何年前のことだろう。小学生の頃だったか?そういえば、昔は美容院は上向きで、理容室は前屈みで洗髪するのがある種の区別だったような気がする。昔のドリフのコントでも、そうだった。

衝撃的な洗髪が終わり、オヤジに、「眉毛はどうしますか?」と訊かれる。そのオヤジの顔をよく見ると、眉毛はかなり細く整えられ、なんというか、治安の悪そうな地域でよく見る感じの眉毛になっている。ただでさえ、今、鏡に映っている自分の髪型は、確かに短めではあるものの、なんとも和風なテイストになっており、ここで眉を任せたらまさに、お洒落な板長みたいにされるのは間違いない。

「いえ、そのままで結構です」

と言うのが限界であった。

特に安くもない料金を払い、なんとか店を出て、かなりお洒落板長な髪型になった自分を、ビルの窓ガラス越しに写して考える。街の風景は人がつくる。そして、人の雰囲気は髪型で大きく変わる。であれば、その街の理容室・美容室のスタイルが街の雰囲気を左右する大きなファクターになっているのではあるまいか。そして、僕はまさに、この町の空気を反映したスタイルになったのだった。


それから数年、僕は二度とドン・ジョンソンの店には行かなかった。橋を渡って、近くのホテルの地下にある理容室(別にそれ程高くない)をずっと使っている。銀座が本店のチェーンで、かつホテルのテナントだから、そこに特定のテイストは無い。たまに、店の人にお洒落板長スタイルの話をすると、結構おもしろがってもらえる。

そういえば、ドン・ジョンソンの店は、買い物の帰りに頻繁に通りかかるのだけれど、今でも絶賛営業中だ。