深夜のタクシー

深夜のタクシー。僕はけっこう乗ることが多い。

夜のタクシーに、あまりお喋りな運転手は好きじゃない。窓の外を流れる自動車の赤いテールランプを、見るともなくぼんやりと座り、その後ろで控えめ のボリュームでかかるAMラジオ、というのが理想だ。それも、「ラジオ深夜便」ならなおさらいい。運転も控えめで、当然、追い越しなんてして欲しくない。

しかし、そういう、僕にとって「好ましいタクシー」というのは二十台に一台あるかないかである。体が傾くほど強烈なコーナーリングをする人、この前 乗せた失礼な客の話をえんえんと語る人(あんたの方が失礼だ)、人の会社の名前を聞く人、、、。当たりのタクシーには、滅多に乗れない。

深夜の空間に、運転手と二人きりで過ごすのだ。よく、タクシー運転手という職業は、お客の中に社会の縮図を見ることができると言われる。しかし、それと同じように、ほんの十数分だけれど、タクシーに乗ると、僕はその運転手の人生の縮図を見ることが出来ような気がする。

僕は、同じ道を、同じ時間帯に、同じコースで、何年も、タクシーを利用している。だから、その同じ道を走る何十人ものタクシー運転手を見てきたのだ。大げさだけど、、、。

客と運転手の立場は微妙だ。一期一会であるだけに、(と言っても、僕の場合は年に数回、同じ運転手に当たることがあるが)、お互いの「強さ」をどう 計るかが微妙だ。つまり、深夜タクシーの運転手という職業は、職業としてサラリーマンより上か、下か、という問題である。基本的には僕は客であり、上なの だが、僕は若いし、そんな僕に乗られる方もいろいろ気分が違うようだ。(特に私服で会社帰り、とかそういうパターンもあるので)

話は簡単で、自分は客より下だと思っている運転手は虚勢を張り、武勇伝を話し、大きな音でラジオをかける。あるいは、頼んでもいないのに、一方的に媚びる。自分が昔乗せたお客の自慢話を、まるで自分の自慢のように話す。

まあ、そういうのはまだいい方で、もう一刻たりともこのシートに座って、働いていたくない、という気持ちがひしひしと伝わってくる人もいる。タクシー運転手なんてうんぜりだ、という人だ。そんな人のタクシーには、僕だって乗りたくない。

一方、プロの運転手としての自信と余裕に満ちている人(やはり個人タクシーの運転手に多い)は、私は私、あなたはあなた、という気持ちのいい距離を持っている。どちらが尊敬に値するか言うまでもない。


先週乗ったタクシーは、非常に「好ましいタクシー」だった。

この不景気で、個人タクシーも最近は駅のタクシー乗り場で客待ちの列に加わっている。僕が乗ったのは、そんな客待ちの中の一台の個人タクシーだった。
「どちらまで」

車内に身を落ち着けた僕に、運転手が訊いたタイミングは、ものすごく素晴らしかった。もしかしたら、彼は、「どちらまで」ではなくて、「こんばんわ」と言ったのかもしれなかったが、どちらにしても素晴らしく自然だった。

運転手は半身を翻して僕を見つめていたが、その目の中には媚びたところも、虚勢も、なかった。つまり、「プロ」の運転手なのだ。

自分が、酷く上品な運転手付きの車を雇ったような気分になった。こいつは素晴らしい。

行き先を告げると、躊躇なく走り始めた。

途中、運転手は一言も喋らなかった。信号で停まったとき、少しだけ自分の席の窓を開けた。確かに、車内は僕が乗ったせいで、若干温度が高くなったのだ。

ラジオからは、ごくごく控えめの音量で「ラジオ深夜便」が流れている。この番組を、家で好んで聴いているわけではない。僕は、タクシーの中で、この番組を聴くのが好きなのだ。


ドアが開いて、料金を払う。「領収書をいただけますか」と自分が言っている後ろで、もう小さなプリンタが領収書を印刷しているのが聞こえている。
「お世話様でした」
「ありがとうございました、おきおつけて」

いつも言うことにしているお礼の一言に、返ってきた返事も、気持ちよかった。

ジョージ・ウォレス

歴史に名を残すのは、英雄か極悪人だ。でも、歴史は英雄と極悪人のためだけのものではない。

ジョージ・ウォレスという名前をきいて、ピンと来る人はあまりいないのではないかと思う。キング牧師や、ケネディ兄弟と同じ時代を生きた政治家だ。

アラバマ州知事として、公民権運動に断固として反対した人物。ベトナム戦争に賛成し、ニクソンと大統領候補の席を争った人物。ケネディを題材に映画を作れば、きっと「悪役その1」ぐらいの役回りになるのだろう。

そんな彼の生涯を扱ったドラマが、最近作成された。僕は、それを見て彼の名前を初めて知った。

このドラマ、別に面白いわけではないし、それほど感動的でもない。筋が進めば進むほど、ウォレスという人物がごく普通の政治家であり、ごく普通のア メリカの白人であったことが分かるばかりだ。彼は彼なりに努力をし、苦難に立ち向かい、大統領にはなれなかったが、平均以上の成功を手にいれた。まあ、別 に面白くはないよね。こんなドラマ見る価値あるのかな?

しかし、僕にとってはこの「つまらなさ加減」がとても印象的だった。何も革新的ではない、何も特別ではない。それは僕たちも同じことだ。自分も含 め、身の回りの誰かが歴史に残るなんてことがあるだろうか?そんなことは、きっとないと思う。僕たちの生涯をドラマになんてしてしまったら、このアラバマ 州知事の生涯に比べてさえ、題材がないだろう。

僕は自分が歴史に残りたいなんて思ったことはない。

ドラマになるような、何かを巻き起こしたいとも思わない。物事を、誰かが勝手に引っかき回して、それを周りのたくさんの人が迷惑しながらどうにか形 にして、それが歴史になるような気がする。例えば公民権運動にしても、キング牧師ははやくに殺されてしまった。本当に歴史を作ったのは、その他の人たちだ と思う。その中には、間違いなく反対者であるウォレスも入るはずだ。僕はむしろ、そういうウォレスのような人に共感を感じる。

自分の人生はどちらに近いのか、と考えれば、間違いなくウォレスの方が僕に近いのだ。その、「つまらなさ加減」。責任を果たし、常識で考え、社会を 支えることは、「つまらない」ものだ。しかし、それは誰かがやらねばならず、大切なこと。嫌な役回りも、役回りの一つには違いないのである。

キング牧師も、ケネディ兄弟も死んだ。殺された。そして、人びとの記憶に残った。
ウォレスはほぼ寝たきりになりながらも、今、アラバマで生きている。人びとは、彼を忘れたけれど、、。