・・・ネットは広大だわ。

Victoria Peak

Photo: "Victoria Peak" 2011. Hong Kong Island, Ricoh GR DIGITAL III, GR LENS F1.9/28.

ビクトリアピークに向かうトラムは、ちょっと意外なほどの急勾配をガタガタと登っていく。香港 = $1,000,000 の夜景 = Victoria Peak という公式は、当然すり込まれており、忠実にここまでやって来た。

トラムを降り、延々とエスカレーターを乗り継いでたどり着いた展望台は、ライトアップショウの時間を前にして、もの凄い混雑になっている。Peak とは言っても、展望台にのぼらないと、あんまり何も見えないのか。


毎晩 8時から行われるライトアップショウは、それでも連日なんとなく見ていると、そんなにたいしたものでもなく思える。さっさとショウが終わらないかと待っていると、やがて、展望台は空き始めた。

さて、噂の夜景は僕の世界ガッカリ観光地にランクインするのか、それとも素直に凄いのか。


そして、手すりから乗り出して眺めたその光景は、まさに攻殻機動隊 Ghost In The Shell のラストシーン、少女の義体に移植された草薙素子が「・・・ネットは広大だわ。」と呟く最後のカットの、あの世界。

そうか、ここからの景色だったのか、と、突然繋がった感じ。

初めて芝居小屋で芝居を見る

Hanazono Shrine

Photo: "Hanazono Shrine" 2008. Tokyo, Ricoh GR DIGITAL, GR LENS F2.4/28.

新宿一丁目。隣に座る見知らぬ男が噛んでいるガムの、甘ったるい人工的な臭いが、とても不愉快だ。天井は低く、空気の流れは悪い。

「非常口が無いじゃないか」と友人はいささか怒っている。ここで火事が起こったら、逃げられないだろうな、と思う。細い階段だけが唯一の出入り口の地下一階。芝居小屋、というのがぴったりな、80名も入れば一杯の劇場だ。

芝居というものを、芝居小屋という空間で、初めて見た。それは、ちょっと予想外の体験だった。なんというか、極めて個人的な人生の断面を、のぞき見しているような、そんな感覚。


僕たちが最初に、芝居というものに触れるのはテレビの中だ。だから、テレビ以前とテレビ以降では、その印象というか衝撃というか、そういうものはかなり異なるだろう。テレビも映画もない時代に、芝居に触れた人の驚きと楽しさは、相当なものだっただろう。テレビで、中途半端な芝居体験を積み重ねてきた僕にとってさえ、けっこう衝撃的な体験ではあったのだ。

ライブビデオとライブが、全く違う体験であるように、芝居は体験としては、テレビよりも遙かに豊かである。例え、舞台がほんの数メートル四方の狭い、装飾も殆ど無い簡素なものだったとしても。その場限りという再演性の無さ、複製芸術にはない共有感。

しかしこれは、まったくスケールしないし、商売としては楽なものでは無い。結局あの日、観客とスタッフと、どちらが多かったのだ?パトロン無き時代の芸術とは、どうやって成り立つのか。そういうことを、また考えた。

都会で育つこと

Photo: molt 2008. Tokyo, Ricoh GR DIGITAL, GR LENS F2.4/28.

Photo: "molt" 2008. Tokyo, Ricoh GR DIGITAL, GR LENS F2.4/28.

「僕はここで育ったんです。で、縁あってこのお店に勤めることになりまして。」

帰り道から少しだけ外れたところにあるバーは、かなり急な階段を 3階分登らなくてはならない。ここが危うくて登れないようであれば、もう既に十分飲み過ぎなのだから、帰った方が良いのだ。


難しいカクテルは出来ない。いろんなモルトが有るわけでもない。でも、歩いて帰れるし、なにより天井が高い。バーテンダーは、多分僕より少し若くて、控えめな優しそうなヤツだ。

「あの安い八百屋知ってます?」
という話になる。

「凄い安いですね。でも、なんかこの前、」
そうそう、ドリアンを置いてたよね。誰が買うんだよあれ。

こんな都心で生まれて育つって、どんな気持ちがするの?

「寂しいですよ。小学校なんて、地元で通ってくる生徒は、全部で 100人ぐらいしか居ないんです。」


昔、社会の授業で習った「ドーナツ化現象」というのは、つまりはこういうことなのだ。長くて危なっかしい階段を下りて、外に出ると雨は上がっていた。バーテンダーは外まで降りて、見送ってくれた。