AirPods Pro、耳にうどんを挿す日

Photo: “AirPods Pro 2019 sheep”

Photo: “AirPods Pro 2019 sheep” 2020. Tokyo, Japan, Apple iPhone XS max.

自分が耳うどんを使う日が来るとは思わなかったが、いろいろ用途を考えると、AirPods proが必要で有ると言う結論に達した。外では使わない。機能としては外音導入ができるが、そもそも耳を塞がない骨伝導のAferShokzの方が合理的だ。室内で日常的に使える、ノイズキャンセリングワイヤレスが必要だ。


想定を遙かに上回る長さの在宅勤務、これがもはやデフォルトなのかもしれないが、そうなると、吃緊の課題はワイヤレスヘッドフォン問題。どうやって、6時間のテレカンを生き延びるか、何のデバイスを使うべきか、は別途書くとして、それ以外の用途。例えば、前回書いた瞑想の時に使うものは何が良いのか。心静かにshellに向かうときのBGMは何で聴けば良いのか。そして不思議なことに、在宅勤務者が口々に言う、近所で建物の取り壊しが始まった問題。(単に普段は会社に行っていて気がつかないだけか、あるはオリンピック特需の反動で工数が余っているのか)これらに対処出来る、ガジェットは何なのか。

昔ほど念入りに考えて物を買ったりしなくなった。というか、SNSで議論の形成は速やかに行われていて、AppleかSonyか、というようなぐらいの選択肢しか無いのだ。音質のSony、(iPhoneとの)使い勝手のApple。ここに音質を求めていないので、使い勝手を選んだ。

偽物が横行する世の中で、無駄な時間を使いたくない。耳に挿す、バッテリー付きのデバイスなのだ、爆発でもされたらたまらない。Appleのオンラインショップでオーダー。昔からある、名前をレーザー刻印するサービス。Yシャツの名前入れぐらい興味が無かったが、なんかいろいろ絵文字が使えるようになっている。であれば、話は別だ。注文。三峡ダム遙か下流の上海から、数日で届けられた。Apple製品は頑なにクロネコヤマトで届く。正しい。


耳うどんについては、沢山のレビューがあって、生活が変わるとか、これ無しの日常はもう考えられないとか、人生のステージが上がるとか、いろんな事が言われているが、そういう事は無かった。もちろん良く出来ている。Apple製品であるので、iPhoneと使うと確かに凄くインテグレートされている。(MacBookとはそれ程でもない)Androidの人が使う意味は、まず無いだろう。ペアリングが面倒では無いとか(Apple製品以外とのペアリングは、きっと恐ろしく面倒なのだろう。調べていないが)、まさかの音量調節の機能は無いとか(”Hey Siri, increase volume.” 英語の鍛錬のためにイギリス版に設定されたSiriに、このように話しかける必要がある)、ケースの電源インジケーターは常時点灯では無いとか、いろいろ驚きの割り切り設計があるが、バランス良く作られていてイライラさせられることはほぼ無い。

ノイズキャンセルで言うと、Boseのアナログ回路版を使ってきたのだが、それよりも格段に自然な印象。デジタル処理のノイズキャンセルは優秀で、スイッチを入れたときに感じる独特の「圧」が少なく疲れにくい。それに、自分が発話した時の声を、意図的に入力に混ぜている?らしく、話したときの違和感が少ないのにも感心する。飛行機に乗る機会は無いので、あのレベルの騒音に対する有効性は分からない。

音質そのものは及第点ぐらいで、Apple信者の信仰心を持ってさえも音質を絶賛する人が居ないことからも想像通り。しかし、微細に渡る日常の利便性であったり、テックを使って周辺環境が悪くても良い体験を与えるとか、そういう一貫した方向性が凄く収束している。そういう解決策の提示力と技術力に相変わらず感心する。Apple税を沢山払っている人には、本当にとても快適な製品、という感想しかない。


いろんなテクノロジーが、さりげなく詰め込まれているのだが、そもそもネック部分が無いBluetoothワイヤレスを、実は初めて使うが、その事自体が快適だったりする。ただ、いつもはApple careなんて入らないのだが、バッテリーが3カ所に使われている事を考えると、これは絶対「いかれる」、と思って後から入った。(恐ろしく面倒だった)

良い音、っていうのは聴かないと忘れてしまうのだけれど、やっぱりこれで音楽を聴いた後に、Shureの有線で同じものを聴いたりすると、震えるぐらい解像度が高かったりする。便利な物と、不便だけど良いもの、両方持ってた方がいい。

Macintosh 20周年

Photo: Blackbird 2004. Tokyo, Japan, Sony Cyber-shot U10, 5mm(33mm)/F2.8

Photo: "Blackbird" 2004. Tokyo, Japan, Sony Cyber-shot U10, 5mm(33mm)/F2.8

Macintosh 20周年、よくもった、と言うべきか。(実際、何度もやばくなってきたし)僕自身、今は 100% Windows で作業しているのだが、このページは開設当初(System 7.5 の頃)は、 Mac で作っていたし、伝統的に Mac でも見られるデザインを守り続けている。それに、このページの読者の Mac 率は、世間のシェアから考えると、3倍ぐらい多い。そんなこんなで、比較的 Mac には肯定的だ。

しかし、どうしても最近の Mac にはキビシイ目を向けざるおえない。それには理由がある。もちろん、菊池桃子が許せないとか、QuickTime pro が有償でけちくさいとか、透明 + 白はもう飽きたとか(だからって、斑に塗ってはいけない)、ロジカルな理由も沢山あるわけだが、根本的な理由は、「奴らには裏切られた」からだ。


世間が、まだ Win95=Mac87 とか言って浮かれていた平和な時代。全ての技術に於いて優れていた(と信じられていた)Mac は、世界を制覇すると言われていた。少なくとも、ユーザーはそう信じていたし、僕も信じていた。(例え、それがネタであったとしても)毎月、重い Mac 雑誌を買い、友達の PC と互換性のないアプリケーションを買い、高い周辺機器にも耐えた。世界一だと思っていたからだ。それがなぜかありあわせのチップとパクリ OS で作った卑しい卑しい IBM PC + Windows に勝てない。日本語とか非英語圏でちゃんと使えるようになればきっと勝てると信じた。でも、全然だめだ。Mac は高いから皆が買えない、ということで安い Mac が出れば、きっと勝てるに違いない。だから安いのが出た、互換機もあった。でも、ダメ。シェアは、消費税かよ、というぐらいに落ち込む。

そして、全ての希望を背負って、新しい Mac OS 開発の報がもたらされる。君は覚えているか、コードネーム Copland。それは、もはや禁句なのか?でも、Be OS をベースにするとか、NeXT がベースだとか、なんだかんだと言いつつも、ちっとも OS が出ない。そうするうちに、Windows は、完全にカーネルから書き換えた NT 系が主流となり、いつの間にかLinux が世界を席巻し、もはや Mac で世界制覇などということを信じている人はいない。(居る?)いや、ジョブズは信じているのかもしれないが。

優れているから勝てるんだ、そう言っていた奴ら出てこい。お前ら、ちゃんと今でも Mac なんだろうな。Windows の Note PC で快適に過ごしたりしていないだろうな?DTP と音楽は Mac に限りますよね、と言っていた奴ら、Windows で Photoshop を使ったりしてないだろうな。第一、Apple、ちょっと前の Windows とも簡単につなげますキャンペーンはなんなのだ。Windows は滅ぶべき、哀れむべき、パチモノではなかったのか。世界を制覇するっていう約束は、どうしちゃったのだ。ん?誰も約束してない?

ということで、非常に自分勝手な思いこみの結果、僕はいまいち Mac を信用できないのである。信じた分だけ傷は深いというか、裏切られた子供達は、ひがみっぽいのだ。


さて、そうは言いつつも、うちには Mac が 3台ばかりあったりする。でも、別に実用としては使っていない。全部、今となっては爽やかなぐらい遅い 68K Mac だし。中でも、最近入手した PowerBook 550c (1995年発売) は気に入っている。当然、僕が大嫌いなタッチバッドなのだが、これが凄く使いやすい。コストとか度外視(まで行かないまでも、コストプレッシャーは今より かなり小さかったはず、だって定価 70万円だよ)すると、こんな風に使いやすくなるのかと思う。まあ、今見ると「ドッグからはずさないと」って、コレ全部で本体か!というぐらい、分厚いし、凶器になりそうな巨大な AC アダプタがついていたりするわけだが。でも、新しい Mac はあんまり欲しくない。今は、自分の中での優先順位として、道具を開拓するよりも、もっと別のことに時間を使いたい、というのが多分一番大きいのだと思う。道具?そう、もうコンピュータは道具になってしまったんだ、、。


注:いまいち、PB 550c のコードネームと定価が怪しい。google さんに訊いても、あんまり確固としたソースが無い。

今週末

今週末って、どんな週末か、、。

台風が来ているのは確実じゃないかと思う。今年は台風が来なかったなーと思ったら、どうやらこれから来るらしい。

こういう自然災害を見ていると、いつも感じるのは人の「家」に対する執着の凄さだ。

外に嵐が吹き荒れ、川が溢れそうになっても、なかなか家を捨てて、逃げようとはしない。そのまま、流されてしまう人だっている。最近、そんな人たちの様子をテレビなんかで見ると、少し気持ちが分かるようになってきた。

その人達が生きてきた証の半分ぐらいと、これから生きていくための保証の半分ぐらいが、もしかしたらその人の「家」にはあるのかもしれない。特に、年をとり、いろんなものを積みあげてきた人は、なおさらだろう。

僕が住んでるのは完璧に平地なので流されたりする心配はないんだけど。


あと、今週末だと、iMacの日本発売があるはず。

ゴミみたいなデザインしかなくなってしまったMacにウンザリしていた、世界のApple信者達には久々の明るいニュース。

10万円前半だったら、僕も買うかもしれない。用途は、もちろん置いておくこと、だ。