Macintosh 20周年

Photo: Blackbird 2004. Tokyo, Japan, Sony Cyber-shot U10, 5mm(33mm)/F2.8

Photo: "Blackbird" 2004. Tokyo, Japan, Sony Cyber-shot U10, 5mm(33mm)/F2.8

Macintosh 20周年、よくもった、と言うべきか。(実際、何度もやばくなってきたし)僕自身、今は 100% Windows で作業しているのだが、このページは開設当初(System 7.5 の頃)は、 Mac で作っていたし、伝統的に Mac でも見られるデザインを守り続けている。それに、このページの読者の Mac 率は、世間のシェアから考えると、3倍ぐらい多い。そんなこんなで、比較的 Mac には肯定的だ。

しかし、どうしても最近の Mac にはキビシイ目を向けざるおえない。それには理由がある。もちろん、菊池桃子が許せないとか、QuickTime pro が有償でけちくさいとか、透明 + 白はもう飽きたとか(だからって、斑に塗ってはいけない)、ロジカルな理由も沢山あるわけだが、根本的な理由は、「奴らには裏切られた」からだ。


世間が、まだ Win95=Mac87 とか言って浮かれていた平和な時代。全ての技術に於いて優れていた(と信じられていた)Mac は、世界を制覇すると言われていた。少なくとも、ユーザーはそう信じていたし、僕も信じていた。(例え、それがネタであったとしても)毎月、重い Mac 雑誌を買い、友達の PC と互換性のないアプリケーションを買い、高い周辺機器にも耐えた。世界一だと思っていたからだ。それがなぜかありあわせのチップとパクリ OS で作った卑しい卑しい IBM PC + Windows に勝てない。日本語とか非英語圏でちゃんと使えるようになればきっと勝てると信じた。でも、全然だめだ。Mac は高いから皆が買えない、ということで安い Mac が出れば、きっと勝てるに違いない。だから安いのが出た、互換機もあった。でも、ダメ。シェアは、消費税かよ、というぐらいに落ち込む。

そして、全ての希望を背負って、新しい Mac OS 開発の報がもたらされる。君は覚えているか、コードネーム Copland。それは、もはや禁句なのか?でも、Be OS をベースにするとか、NeXT がベースだとか、なんだかんだと言いつつも、ちっとも OS が出ない。そうするうちに、Windows は、完全にカーネルから書き換えた NT 系が主流となり、いつの間にかLinux が世界を席巻し、もはや Mac で世界制覇などということを信じている人はいない。(居る?)いや、ジョブズは信じているのかもしれないが。

優れているから勝てるんだ、そう言っていた奴ら出てこい。お前ら、ちゃんと今でも Mac なんだろうな。Windows の Note PC で快適に過ごしたりしていないだろうな?DTP と音楽は Mac に限りますよね、と言っていた奴ら、Windows で Photoshop を使ったりしてないだろうな。第一、Apple、ちょっと前の Windows とも簡単につなげますキャンペーンはなんなのだ。Windows は滅ぶべき、哀れむべき、パチモノではなかったのか。世界を制覇するっていう約束は、どうしちゃったのだ。ん?誰も約束してない?

ということで、非常に自分勝手な思いこみの結果、僕はいまいち Mac を信用できないのである。信じた分だけ傷は深いというか、裏切られた子供達は、ひがみっぽいのだ。


さて、そうは言いつつも、うちには Mac が 3台ばかりあったりする。でも、別に実用としては使っていない。全部、今となっては爽やかなぐらい遅い 68K Mac だし。中でも、最近入手した PowerBook 550c (1995年発売) は気に入っている。当然、僕が大嫌いなタッチバッドなのだが、これが凄く使いやすい。コストとか度外視(まで行かないまでも、コストプレッシャーは今より かなり小さかったはず、だって定価 70万円だよ)すると、こんな風に使いやすくなるのかと思う。まあ、今見ると「ドッグからはずさないと」って、コレ全部で本体か!というぐらい、分厚いし、凶器になりそうな巨大な AC アダプタがついていたりするわけだが。でも、新しい Mac はあんまり欲しくない。今は、自分の中での優先順位として、道具を開拓するよりも、もっと別のことに時間を使いたい、というのが多分一番大きいのだと思う。道具?そう、もうコンピュータは道具になってしまったんだ、、。


注:いまいち、PB 550c のコードネームと定価が怪しい。google さんに訊いても、あんまり確固としたソースが無い。

阿藤快のために伊勢海老を煮ている

俺はなんで、阿藤快のために伊勢海老を煮ているのだ。しかも、殻を砕いてシノワで濾して何をつくっているのだ。ソースでもつくっているのか。

熱に浮かされた悪夢はとめどなく、僕を苛んだ。海老が煮えない。阿藤快が吠えている。「海老はまだかっ!」


4年前、四万十川から帰って、直ぐに肺炎になった。夏の暑い盛りに、脱水症状を起こして、病院の待合室で倒れた。医者には、「肺炎は癖になるから、何年かは気を付けるように」と言われていたが、今年はどうもあたってしまったらしい。

どんどん調子が悪くなって、声が出なくなって、体温がコントロールできなくなる。色んな事ができなくなっていく。起きあがっているのも苦しい。気が付くと、病んでいる人間の臭い、みたいなものが自分を包んでいる。これは何の臭いなんだろう。膿んだような、ゆっくり朽ちていくような臭い。

寝床の上で、ぐるぐる回る天井をにらみ付けていると、やる気も、未来も、動ける自分が前提になっていることにふと気が付く。そして、いつか自分の体がそのまま停止して、失われるということを思い出す。呼吸をしているのは、まごうことなく自分の肉体で、それはいつか止まるのだ。生きるというのは、なんて個人的な事なんだろう。

、、まあ、でもこれだけ調子が悪いと、何かしなくちゃという強迫観念にも似たものはなくなるから、それはそれで良い。ぼんやりテレビ見ているのがせいぜいだし。


注:もう回復しました。

白目があるのは、動物では人間だけらしい

日ごろは全然役に立たない日経新聞にも、たまには良いことが書いてある。白目があるのは、動物では人間だけらしい。ホントか?近所の犬の目を覗きこんでみるに、本当のような気がする。

表紙の羊(手製)は、まあ、いろんなところが間違っているわけだが、まず白目があることから間違っていたか。第一、リアルに言えば、羊の目というの は実は四角かったりするのであって、それを生物学的に正確に描いてしまうと、なんか呪いかかったようなページになってしまいそうだが。


そもそもなんで羊ページなのかという理由は、プロフィールのあたりに書いておいたが、ようはあんまり確固とした理由はない。羊ページという割には、 羊がらみのコンテンツが一つもない。写真だって一枚もない。一昨年の年末などは、年賀状用の羊の写真を求めて、恐ろしいくらいの数の人たちがこのページを 訪れ、空振りして帰っていった。申し訳ないことだ。

そんな風にいい加減に続いてきたこのページも 21日で 8周年を迎えた。これぐらいになると、もうめでたいとかいうよりも、また一つ歳をとってしまった(何が)というような気分に近い。個人 web サイトの一生、みたいなものを解説しているサイトでも、8年とかになるともうあらかた想定外になっている。

テーマも定まらないまま、管理者の興味の移り変わりに翻弄されながら、なんとなく続いてきたこのページ。まあ、今後とも羊の白目みたいなページでいいやと思う。なんだそれ。