エピソード3

ちょっと前の話になるが、EP3 が面白かった、という人は多くて(と言うよりも、面白くないなんて言っている人は誰も居なかった)、でも僕にはあまり面白くは感じられなかった。
EP4 – 6は時代を切り開いた作品で、それが「オーラ」となって漂っているのだが、EP1-3にそれはない。EP4-6は創作物として、未踏の世界を指向していたが、EP1-3はそこまでの高いところは見ていない。
そうした映画そのものの部分での限界と同時に、EP4-6当時、冷戦という時代的な背景によって与えられていたテーマの普遍性が、現時点ではもう無い、もしくは、滑稽な昔話になっているという大きなハンディがあるようにも感じた。
スターウォーズは、アメリカとソ連の対立をモデルにしてつくられた映画だよ、と教えながら幼い娘と映画を見ていたアメリカ人の父親は、
「お父さん、アメリカはどっちの役なの?」
と訊かれたと言う。今となっては、誰が自信をもってその問いに答えられるだろうか。

風邪予防に加湿器

加湿器を買った。加湿器を買うのは流行っているようで、ヨドバシのサイトではお一人様 1点限りだった。何台も加湿器を(それも同じモデルを)欲しい人が居るのだろうか。多分、そういう人は居るんだろう、僕は 14インチのまったく同じ液晶テレビを 2台買ったことがある。

なんにしても、僕の部屋には、これで、加湿器と除湿機と空気清浄機が揃ったことになる。バカみたいな話だ。3台を並べてみると、僕の体は、日本の気候というものに全然順応していないんじゃないかとさえ思う。っていうか、この際一つにまとめてくれよ。

でも、この加湿器は結構気に入っている。


気化式だから、蒸気を出すわけでもなく、熱くなるわけでもない。小さなファンの音をさせているが、動いているのか動いていないのかあまり分からな い。本体の片方に、アメリカのドラマに出てくるミネラルウォーターのベンディングマシンのような、大きくて透明な水のタンクがついていて、時折、ボコッと いう音をさせて水が本体に吸い込まれていく。

大きな気泡が立ち上って水面を揺らし、水位が少しだけ下がる。仕事してるよー、とでも言うように、ボコッと音がする。休みの日の午後に、暖房を付 けっぱなしで寝てしまっても、起きてのどが痛くない。確かに、仕事をしているようだ。で、僕が何をするでもなく水面を見つめていると、また、ボコッと気泡 を立たせる。実は湿気なんて出なくても、泡が出ているだけで、だいぶ気分が良くなるんじゃないかとさえ、思うのだ。

注:加湿器と除湿機と空気清浄機。器、機、機。僕が漢字を間違えたわけではありません。加湿器って、機械じゃないってことかな?

もう一度、『風の歌を聴け』について

もう一度、『風の歌を聴け』について書く。

僕がこの 10年で一番読み返した本は、間違いなく、村上春樹の処女作『風の歌を聴け』だった。何か面白い筋のある小説ではない。でも、何故か読み続けてきた。色々 な所に持っていったし、何人かの人に貸したこともあるが、今もちゃんと手元にある。薄っぺらい文庫の表紙は既にすり切れて、角は丸くなり、紙は茶色く日に 焼けた。

何故、自分がこの本を読み続けてきたのか、意味を考えたことは無かった。そもそも、この本が何を言おうとしているのか、この本から自分が何を受け取っているのか、それを考えようとしたことさえ無かった。


もう一つの 10年。僕はこの羊ページという場所で、ずっと何かを書いてきた。そこに流れているテーマは、決してポジティブなものばかりではなくて、むしろ、辛いこと ばかり書いていた時期もある。書くことが無くて、食べもののことだけ書いていたこともある。でも、書いているのは楽しかった。

Web がきっかけで、写真を撮るようにもなった。記念に何かを残したい、わけではない。その場所や、その人の姿を借りて、自分の思いもよらなかったものを生み出 すことができるのが、嬉しい。写真は、ちょっと苦しい思いをしながら書いている自分にとって、自信を与え、助けてくれる存在になった。


そして、歩いてきた 10年。学生から、社会人になって、いろんな人に出会いながら生きてきた。決して平坦な子供から少年に至る時代を送ったわけではない僕にとって、その 10年は、自分の周りの世界と、自分の中につくられた世界のギャップをどうにか埋めようと、ぐるぐる迷い続けた長い時間だった。

でも、何かが変わりつつあるような、そんな気がし始めた去年。

今、それは確信になりつつあって、この 10年の答えと、そしてその先を生きていくためのヒントに、気がつきつつあるような、今はそんな思いがしている。僕がどんな言葉を探していたのか、僕が何故書き続けてきたのか、僕がぐるぐる歩いてきた意味は何だったのか。


『風の歌を聴け』に話を戻す。

今朝、ふと部屋の本棚を見て、1995年の「國文學」という雑誌を見つけた。特集は「村上春樹―予知する文学」。何年かぶりに中を見て、その中の、「夏の十九日間―『風の歌を聴け』の読解」に目がとまる。

結論を先に言えば『風の歌を聴け』は、否定から肯定への物語である。

―加藤典洋

答えは、すり切れた『風の歌を聴け』の文庫本と一緒に、10年間、同じ本棚で眠り続けていたのだ。

僕がこの小説から無意識に受け取り続けていた、もう一つのメッセージの正体が、そこにははっきりと書かれていた。そして、その原稿の執筆者の名前。それは、僕が 10年前に大学で文章について一番大切なことを教わった、尊敬する先生の名前だった。

注:國文學、「夏の十九日間―『風の歌を聴け』の読解」、加藤典洋、1995年3月号。