ニューオリンズ

夏休みやら、仕事やらで、しばらく米国に行っていました。

昨日、ルイジアナ州ニューオリンズから帰ってきたのですが、あそこは凄く変わった街ですね。

アメリカ南部ということで、いったいどんな場所なんだろう、怖そうだな、と思っていたのですが、とてもいいところでした。フランスの植民地だった時代を経て、合州国の一員になっているので、アメリカには珍しく独自の文化と歴史を感じることのできる街です。

日本の街で言うと、神戸に近いのではないかと思います。ニューオリンズに海はありませんが、そのかわりに、ミシシッピーの流れがあります。異国の文化が、独特に変化して、息づいています。ですから、米国の国内からの観光客が多く、特に家族連れや、年寄り夫婦なんかが多いのです。治安状態も表通りは非常に良く、深夜でもあまり身の危険を感じることはありません。

仕事で行ったので、街を巡る時間はあまりとれませんでしたが、少し写真も撮ってきたので、おいおいアップロードするつもりです。少しヨーロッパ風な、町並みがあって、面白いものが撮れたはずです。


しかし、米国に行って今回も思ったのは、飯のまずいことまずいこと。とにかく、酷い。

昼メシ(メニューは、巨大ハムのボソボソパンサンドイッチ、油ポテトチップ、胸焼けサラダ等、、)を食べながらフランス人と話したのですが、「奴らの食い物は、奴ら以外の人間にはとても不味くて食えない」ってことです。ニューオリンズには 1週間いたのですが、アメ食の恐ろしさを、今回も満喫することができました。

でも、彼らにも美味しく作れる料理があります。

それが、「スクランブルエッグとオムレツ」そして「コーヒー」。ホテルの朝食や、機内食では必ずスクランブルエッグかオムレツを食べていたのですが、非常に美味しいです。吐き気がするほど量が多いということを除けば、どこで食べても、まずいということはありませんでした。火の通し加減もなかなか良くて、これだけは感心しました。

あと、コーヒーなんですが、これは特にニューオリンズは美味しかったです。たとえ安手のポットでサーブされているようなコーヒーでも、香ばしいローストされた豆の匂いが、ちょっと日本では飲めないような感じです。


その他、ニューオリンズにはクレオール料理、ケイジャン料理という郷土料理があります。ケイジャン料理はスパイスが強く、大半の日本人の口には合わないと思います。それに対して、クレオール料理は、フランス料理をベースにした、どちらかというとマイルドなメニューが多く、日本人向けです。値段は高めですけど。

クレオール料理は、かなり僕の口にあったので、夕御飯はホテルから少し離れた所にあった地元料理の店でよく食べました。100年前からやっているという店で、観光客も少なく、落ち着いて食事ができます。

店のメニューはどれも日本人好みの味です。特に、クローフィッシュ・エトフィーという、ザリガニのシチューのような料理は大変美味いです。エトフィーはどこの店でたべても、そこそこに美味しく、あたりの店ならば、大満足の味にぶつかるかも知れません。

今回、仕事関係以外では、ほとんど現地で日本人(アジア系も含めて)に会いませんでした。今、ニューオリンズは観光のトップシーズンです。すこし落ち着いた海外旅行に行ってみたいひとは、いいんじゃないでしょうか。僕は、プライベートで、もう一度、行ってみてもいいかなと思いました。

飛行機は、乗り継ぎも含めて 16時間ほどかかりますが、、、ね。

セール対象外

遅ればせながら、バーゲンを当て込んで買い物に行った。

新宿や渋谷に行くのはかったるかったし、そういう人の集まりが良さそうな所では、めぼしい品が既に全滅しているはずだから近場にした。

久しぶりに、某駅周辺を歩くと、いろいろ新しい店ができていた。オープンしたばかりの、某ブランドの直営店をのぞいた。まだ建材の匂いが立ちこめる店内は、いきなりセール。

高い天井とだだっ広い店内、山盛りの商品、妙に安い価格。店内にはフォードのエクスプローラーが無造作に置かれ、気取ったところがひとかけらもなく て、「アメリカみたい」というアホな感想しかわいてこない。なんか、いろいろ実用的なものが安いので、海外の免税店で商品を物色するような感覚で、店内を うろうろした。


さて、久しぶりにまともに買い物に行って、改めて「買い物って楽しい」と思った。

当たり前のことなのだが、買い物のいいところは、「欲しいものは買える」という点にある。手に入れたいと思ったら、レジに持っていって現金なりカードなりをだせば、それで自分のものになるのだ。品物を受け取ったその瞬間から、後にも先にも、この商品は自分のものである。

これって、けっこう凄いことだ。

買えないものっていうのはいろいろある。才能は買えない。チャンスも難しい。好意?これは買えるかも。友情は売れるときはあるが買えない。あの人の心は?買えないだろうな。まあ、この際買えないものの話は置いておこう。

買えないものは確かにあるにしても、少なくともお店で目に入るものというのは、買える。品物に限らず、売っているものは、買える。商品には、その対 価を示した値札までついている。買い物とは、極めてシンプルで、容赦ないものなのだ。買い物でストレスの解消をする人がいるが、とてもよく分かる。世の中 に、こんなにシンプルなことはそうは無い。

まあ、こんな事は、普通はだれも気にとめないのだろうけど、今日ふと、これは凄いなと思ったのだ。


結局、買おうと思ったサンダルはサイズが売り切れ。別に、この店で何かを買う予定ではなかったので、まあいいか。それでも、隅っこに積んであった帽子が気に入ったので、それを「自分のもの」にして店をでた。

対価は \3,500。後で気がついたが、セール対象外品だった。

羊ページの歴史

このページ、記録に残っている限りでは 1996年の1月から更新し続けている。今日は、少しその歴史を振り返る。([更新履歴]には歴史の一端がある)

個人がホームページを長く続けることは、とても難しいことだと思う。僕が、このページを作り始めた96年、僕の周りでホームページを作っていた人も、今ではほとんどやめてしまった。

人の生活や、心境は絶えず変化する。その中で、不特定多数の人間に対して、メッセージを発し続けるのは、非常にタフなことである。
「今日の一言」は日記ではない。日記ではないから、いろいろと強がって書いている部分が多い。これは、僕のよそ行きの文章である。

にもかかわらず、過去の文章(あまり昔のものは載せていないが)と読み比べてもらえば、その時々で、僕の文章にいろいろな変化があることに気づくだ ろう。明るいとき、沈んでいるとき。感情が出ている時、感情を押し殺しているとき。そういう意味では、このページは、僕の歴史の一部でもある。

実は、このページを運営してきた 2年半あまりの間に、ホームページ自体を閉鎖しようと思ったことが、何度もある。

理由は様々だ。しかし、突き詰めていくと、パブリックな場所に自分の文章を掲げておく事が、耐え難くなるのである。自分の存在を、ずうずうしくアピールするのが、たまらなく嫌になる。

しかし、それでも何とかこの場所が存在しつづけているのは、何故だろう。

ふと考えてみると、僕という人間が生きて、何かを作ったという証は、寂しい話、ここにしか無いのである。もちろん、僕にも勤める会社があるし、友達もいるし、家族もいる。しかし、僕が生きて、後に何が残るのだろう。皆さんも、そんな事を考えてみたことはないだろうか。

そんなことを考えると、このくだらないホームページが、僕の中でいつの間にかとても大きな存在になっていることに気がつく。

お前は、あれを作ったじゃないか、、と。

僕は、文章や写真(というか、デザインだな)が好きだから、こういう場があることはとてもラッキーだ。幸い、褒めてくれる人もわずかだがいる。たまに、感想も来る。(あんまり来ないけどね)

でも、また何度も消したくなる事があるだろう。でも、頑張って続ける気でいる。約束はできないが。

まあ、とにかくページの誕生以来の読者の人、あるいは最近、ここを見つけた人。みんな含めて、約 2年半どうもありがとう。そして、これからもよろしく。