生き残れない人々

うちの近所に、橋の撮影スポットが有る。毎日毎日、プロもアマも、コンデジから本気一眼デジまで、いろんな機材を持った、いろんな人々が、ただ一種類のフレームを目指してやってくる。

写真を撮る、そして何かそれを作品にする、という意味においては、まったく無意味だ。少なくとも、何か創作を志そうというものが、雁首を揃えて一斉に川面にレンズを向けるなんて、何の意味があるのか。


実は、この橋には、その下を潜る通路がある。そこから眺める景色は面白い。橋の両岸には長いリバーウォークがあって、そこから橋自体を見ることも出来る。いくらでも、自分の視点を入れられる。

なのに何故、同じ立ち位置で、同じような写真を撮りたいのだ。趣味?だったら、何も失うものは無いのだから、自分の視点を大事にしたらいい。プロ?だったら、凡庸の素材集みたいなフレームを撮るな。そう、どっちにしたって、そんな所でカメラを構えるなよ。

でも、そんな光景を見れば見るほど、成功できる人が一握りな理由が分かる。誰も、そこから抜け出るちょっとした勇気も、心の自由さもないのだ。それをもった少しの人が、やっとどうにか、スタートラインに着ける。そういう事なんだろう。

山羊ページと山羊の味。

Photo: “A goat soup.”

Photo: “A goat soup.” 2016. Naha, Okinawa, Japan, Apple iPhone 6S.

羊ページを、山羊ページと間違えて覚える人も世の中には居るようで、そんな風に覚えてしまうといかに優秀な検索エンジンをもってしても、ここに再びたどり着くことはできないらしい。

じゃあ、山羊ってどんな味なんだというと、それは沖縄で食べてみるのが一番だ。


昼飯時。仕事場の近所の、いかにもローカルな食堂で、「山羊汁」の札を見つけて、そこはやはり頼むしか無かった。ヨモギ入れますか?と聞かれて、意味は分からなかったが頷いた。そして、ヤツが来た。

見た感じ、ちょっとコーンビーフと言っても良いような、繊維感のある肉質。ヨモギは結構盛大に入っている。それでは一口。。

少しカントリーサイドに、というか、風向きによって牛糞だの鶏糞だのの臭いがする暮らしに慣れた人にとって、山羊の味を想像するのはとっても簡単だ。飼料が入ってるサイロ、あのあたりの臭気を口いっぱいに詰め込む感じ、以上。

動物を頂いている感満載。控えめに言って、吐きそうなギリギリ感。それをなんとか救ってくれるのが、ヨモギの清涼感。これの助け無しに、この料理を完食するのは多分無理。難易度が高いと言われる名物は色々あるが、なんとか完食できなくは無い絶妙なハードルの高さという意味では、良いんじゃないかな、山羊汁。

Photo: “Goat sashimi.”

Photo: “Goat sashimi.” 2016. Naha, Okinawa, Japan, Apple iPhone 6S.


ちなみに、山羊肉は加熱すればする程、臭いが出るそうで、実は刺身で食べるのが、一番クセが無くて美味しいんだそうだ。那覇の夜。茹だるような気温の店内で、緩く扇風機がかかる中、常温で置きざらした山羊肉を生で頂く。

幾分のスリルと、ニンニクが効いて大層美味しかった。

放蕩息子の例え

Photo: "Over the fence."

Photo: “Over the fence.” 2017. Chiba, Japan, Fujifilm X-Pro2, Fujifilm M Mount Adaptor + Carl Zeiss Biogon T*2,8/28 ZM, PROVIA film simulation

なぜか理由は分からないのに、ずっと印象に残っている話というのが有る。

僕はキリスト教系の学校に行っていたので、当然のように礼拝があり、聖書の授業があった。聖書には沢山の例え話が出てくるが、意味が分からないものも多かった。

中でも、奇妙に印象に残っているのが、いわゆる「放蕩息子の例え話」だ。筋は比較的簡単。有るところに兄弟が居て、弟は父の財産の半分を受け取り、旅に出て好きに暮らした。兄は、父の元で真面目に働いた。やがて、財産を使い果たし、一文無しになった弟は故郷に帰ってくる。それを見つけた父は、喜んで祝宴を開くが、兄がこれに文句を言う。なぜ、家を捨てた息子の帰郷を祝ってやるのか。父は、こう諭す。

すると父は言った、『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』(ルカによる福音書 15章 31-32節)

なんとも腑に落ちない話だ。宗教的に言えば、きちんと解釈があって、神に逆らった者に対する赦しを表している、と習う。当時僕は、なるほど、そうか、とは思わなかった。(だからクリスチャンにもならなかったのだろう)


でも、今、ふとこの物語を思い出して、もっと深いところで共感を感じる。クリスチャンでは無い僕は、聖書を聖典だとは考えないが、聖書はナラティブ(物語)としてとても優れていると思うようになった。数千年にわたって、人々が蓄積してきたナラティブの深さ。1節 1節は、現代の文学からすれば、至って淡泊で簡潔だが、その向こう側には今と同じ苦悩も、喜びも有る。

そうして、この短い例え話は、失われたものを、再び見いだした人の、純粋な喜びが表されたナラティブだと、僕は思う。失われていたのに、見つかったのだ。喜ぶのは、あたりまえなのだろう。