文部省が「塾」の存在を認めたらしい。
僕がいわゆる「塾」(というか、予備校)と言われるものに通ったのは、高校生3年の半年間だった。
理由は簡単で、予備校に行かないと今の日本の受験制度では、どうにも大学には受からないからだ。(学校で習うことは、試験に出ないのだから仕方がない)
ただ、僕の周りでは、もっと早い時代から塾通いをするのが一般的だった。僕が小学生の頃、既に「お受験」は始まっていた。その頃既に、周りには午後11時過ぎまで塾に通っているような奴がけっこういた。
僕にとっては、そういう努力は驚異的に思えた。当時、僕は「塾」というものには足を踏み入れたことも無かったので、「塾」という場所ではいったい何が行われているのか、想像が膨らんだ。
もしかしたら、そこまでやらないと、ろくでもない将来が待っているのではないか?という怖さを感じたりした。小学校の4年生ぐらいから塾に行き、夜 中まで勉強し、学校の授業は馬鹿にしきって寝ている奴ら。(実際、彼らの睡眠時間の方が、小学校の先生よりもずっと短かったはずだから仕方がない)それで いて、試験ではあっさりと学年の上位を独占する奴らには、努力と犠牲に裏打ちされたプライドのようなものがあった。
例えば、僕のクラスで、一番睡眠時間が少なかったのはKという奴だったと思う。彼は、小学生にして睡眠時間5時間程度で、えんえんと勉強していた。人生の最初の段階から、なんか差がつきはじめているような気になったものだ。
塾というものに、明確な目標を持って行く人間は少ない。あえて言えば、塾というのは、将来のための保険のようなものかもしれない。
学歴が通用する、ある種のセグメントに於いては、いい大学に行くことで就職に際してのリスクを減らすことができる。つまり、良い大学に行けば、なんというか望ましくない職業(賃金が低い、社会的立場が低い、等)に就いてしまう危険が減る。
しかし、逆に言えばその程度の事を手に入れるために払わねばならない代償、それは果たして彼らにとって見合うものになるのだろうか。
結果論なのかもしれないが、もし、塾の勉強というものが自分の将来に対する保険だとするならば、その代償は思ったよりもずっと高価かもしれない。
ただ、僕はよく大人達がするように、塾に通って頑張っている人たちを批判したりしない。
彼らは遊んでいるのではない。時代の先端に立たされて、そこから逃げることなく頑張っているし、いろんな事を考えていると思う。だから、彼らが自分たちの努力に見合った将来を手にできると良いと思っている。
僕は結局、勉強とはあんまり関係なく10年以上趣味で触っていたコンピュータが、自分の仕事になった。僕は塾に行くという保険をかけなかったので、その分の時間を自分の興味のために使う事ができた。ある意味では、僕の選択はうまくいったのかもしれない。