7月4日に生まれて

seagull

Photo: "seagull" 2008. Tokyo, Japan, Zeiss Ikon, Carl Zeiss Biogon T* 2.8/28(ZM), Kodak 400TX.

7月4日に生まれて、を観る。最初に僕が観たのは、多分、中学の時だ。膝の手術をして、退院してまもなく観たのだと思う。だから僕はこの映画を、反戦映画、というよりも、中途障害者の映画、として観た。


銃撃により脊髄を損傷して、歩けなくなった主人公の立場が、その時の僕にはとても近く、深く感じられた。病院で、車椅子の中に混じって座る自分。そうして、気がつくと自分だけが立ち上がって走り出す。劇中でトムクルーズ演じる主人公が見る夢だが、僕も病院で同じ夢を見た。


僕はまもなくして歩けるようになり、やがて、走れるようにもなった。そして、そんな夢は、見なくなった。でも、一生回復しない人たちも居る。病院から、出られない人も居る。実際、退院した後もしばらくは、何をするにも怖い、と思った。もし、事故にでも遭って、また、あの病院に戻るのが怖い。随分長い時間、そんな恐怖に苛まれながら、生活していたと思う。


今、良くも悪くも、もうその記憶は無い。張り切って走りすぎたときに感じる膝の痛みや、ふと正座する場面で、それが出来ない時に、自分が他の人とは違う経験を潜ったことを思い出す。しかし、その時だけの事だ。時間が経って、忘れること。それが、何かの救いにはなる。そう信じたいと思うのだ。

香港特別行政新宿区

Seven Eleven

Photo: "Seven Eleven" 2011. Kowloon Peninsula, Hong Kong, Sony α900, Carl Zeiss Planar T* 85mm/F1.4(ZA)

香港の中心部は、日付が変わってからも、女性も歩けるくらい、治安が良い。終電間際の地下鉄に、若い女性が一人で乗っているのもよく見たし、深夜の地下道を歩く人たちも、さほど緊張感を持っているように見えなかった。

ただ、通りから通りへ、ブロックを移るだけで表情を変える町並みは、時に緊張感を強いる濃い裏通りがあったり、ギラギラした香港的ブランド店が並んだり、色とりどりだった。


細かい通りを、行き当たりばったりに通り抜けて、今居る場所もよく分からなくなった。心地よい彷徨い感の末に、路面のアイリッシュパブに腰を落ち着けた。やけに貧相なピーナッツを割りながら、ヒューガルデンとギネスを飲む。

目の前にはセブンの見慣れたサインがあり、狭い道をパトカーがサイレンで威圧しながら、あるいはAMGのメルセデスが横柄にクラクションを鳴らしながら通った。そんな光景を呆然と見ていると、同行の一人が

「新宿区ですね」

と言い切った。そう、香港の中心街を何かと比較した場合、その対象として東京というくくりをすると異なる国だ。が、そのブロックからブロックへの多様性、治安のレベル感、無国籍でエッジな風俗、そういう事を一言で、我々の理解可能なものに置き換えるとすると「新宿区」なのだ。

なるほど、この瞬間の空気とこの景色は、とても僕たちの日常に近い。

アンコウ鍋

sea devil hot pot

Photo: "sea devil hot pot" 2011. Tokyo, Ricoh GR DIGITAL III, GR LENS F1.9/28.

都心から地下鉄で少し、駅の階段を登るとすぐ国道が通っている。商店街も何も無いそんな道沿いに、古くからの鮨屋が一軒。

引き戸を開けると、カウンターはもうお客で一杯だ。座敷でビールを飲みながら、集合まで少し待つ。去年のアンコウ鍋会では、やや熱燗をがぶ飲みし、お会計もだいぶ大変な事になった様であり、今年はもう少しじっくり鍋を頂こうという感じ。


丸一匹分?だろうか。とんでもない量のアンコウが、野菜も控えめに大皿に盛られてくる。良く行く居酒屋の料理番が、今日は客の一人として、鍋奉行をしてくれる。

「料理人の手だから、そのまんま手づかみでいいわよね」

と、鍋にリズム良く具を入れていく。それが、妙に説得力があるのだ。


アンコウの身を山と鍋に入れて、とどめに、かぶせるように肝をどっさり載せる。もう、下の野菜も身も見えない。
あとは、グツグツ肝が煮融けるのを待つばかり。