鉄条網と、送電線。
鉄条網は撮り慣れているのである。鉄条網を撮らせたら、ちょっとうるさいのだ。
白黒の写真はフォルムを捉える。そして、意味を剥奪する。
写真と紀行文
鉄条網と、送電線。
鉄条網は撮り慣れているのである。鉄条網を撮らせたら、ちょっとうるさいのだ。
白黒の写真はフォルムを捉える。そして、意味を剥奪する。
そろそろ十五夜かと思ったら、そんなものはとっくに終ってしまったという。僕は昨日、タクシーの運転手と、そろそろ十五夜ですね、なんて話したばかりだというのに。
電車の中の蒸し暑い空気を、ガラガラ言う冷房がさかんに冷やしていた。僕の目の前では、少し太めの女性が、一緒に帰る後輩のバイト君を口説いてい る。あたりさわりの無さそうな会話のはしばしに、なんとも言えない誘いのフレーズ。もっとも、バイト君には、あんまりその気はなさそうだ。
外を見ようと、頭を巡らせると、隣に座ったおっさんと目があった。せせこましい駅の風景が、汚れた窓越しに見えた。ドアが閉まり、どこかに向かって電車が動き出した。車内から月は見えない。
君の月はどっちに出ている?
ある評論家が言っていた。「本の中には、必ず理解できないセンテンスがある。理解できないものを恐れてはならない。それが、自分を成長させてくれるのだ」
文章を書くということは、本来書けないこと、分かっていないことに近づくために書くのだ。そうやって、試行錯誤を繰り返して書くと、最初に書いた文 章が、最後には一段落も残らないことだってある。途中で行き場がなくなって、何ヶ月もそのままになることだってある。しかし、文章が出来上がったとき、何 か新しいことを手にする。
文章の出来・不出来は、自分では直ぐに分からない。例えば、何年も前の自分の文章を読んでみて、ああ、この時は苦しかったけれど、今見るといい出来だな、と思う事が、たまにはある。
でも、ここ数回のはいまいち、、だねぇ。