アメリカでそんな小さいスープがあるか!

A Cup Of Crawfish Bisque Soup And A Bowl Of Crawfish Bisque Soup

Photo: “A Cup Of Crawfish Bisque Soup And A Bowl Of Crawfish Bisque Soup” 2011. U.S., Apple iPhone 4S.

いわゆる「グループディナー」。好きではない。

たいてい、出張の初日や最終日(あるいは毎日)に、チームの親睦を深めるべく企画される。見知らぬガイジンと食事を共にするのだから、楽しくないとは言わないが、けっこう疲労困憊する。日本で言う「飲み会」というのとは違うので、最悪、すべてソフトドリンクで進行する場合もある。まあ、仕事なので仕方ない。


これが何度目のグループディナーだろう。仲良くなる、と言う事が仕事の一端であるからには、出ないといけない、と自分には言い聞かせる。地元料理のレストランに現地集合。テキサスの人々は、結構飲むので、料理の分量がおかしいことを除けば、やりやすい。

普通、料理はホストが選んでくれるものだが、今回は流れで、メニューは各自が勝手に選ぶ、と言う事になった。ガイドブックも無いし、文字だけでさっぱりイメージがわかない。写真メニューのある日本は、本当に偉大だと思う。

アメリカでも南のほうなので、料理は南部っぽくて、ザリガニとかガンボとか、そんなものが多い。向かいの席の小熊のような体格の Adam は、エビのベーコン巻きを強烈にお勧めしてくる。

でも、僕はザリガニが食べたい。ずーっと前にニューオリンズで食べたザリガニは、とても美味しかった。


戦略が必要だ。メイン1皿だけで満腹になる事は目に見えている。サラダを頼むのも、危険だ。八百屋の店先みたいな大きさのが来るに決まっている。

よく見ると、ザリガニのビスクスープには「カップ」という設定がある。これならば、スープを頼んで、別にメインを頼める。これは名案だ。ザリガニスープと、メインには Adam お勧めの、海老のベーコン巻きを注文。これで、親切な Adam の顔も立つというものだ。

その Adam は、パスタの上に、巨大茹でタラバガニが乗る、謎の料理をガボガボ食っている。これ、別々に盛れば良いんじゃ無いだろうか。蟹に味付けはされておらず、添付の壷に入った溶かしバターをどっぷり浸けて頂くのがお作法のようだ。見ているだけで、満腹になってくる。


運ばれてきたビスクスープは、思った範囲の大きさで、味もコッテリと申し分ない。僕が満足げにスープを飲んでいると、Adam がギョッとした顔でこちらを見ている。

「おい、それは一体何だ?」

何だって、スープだよ。

「なんてことだ、アメリカでそんな小さいスープがあるか!!ちょっと待て、店に文句を言ってやる。」

いや、待て、俺はこれで丁度良いんだ。あえてこの大きさなんだ。問題ないんだ。

「ちょっと、お姉さん、そんな小さいカップじゃダメだ。可愛そうだ。ドーンと、でっかいボウルで持ってきてやってくれ。ここはアメリカだ!アメリカでそんなサイズはダメだ!!!」

アメリカはでかくなくちゃダメなんだ。バーベキューグリルも、テントも、全部荷台にぶち込めるような、でかいピックアップトラックに乗らなきゃダメなんだ。薄々、この国はそういう価値観なんだろうと思っていたが、ここまではっきり言われたのは初めてだった。

ウェイトレスはニッコリとして、そして、すぐにサラダボウルみたいなスープが置かれた。

素晴らしいテキサス日本料理 Waza

Waza entrance

Photo: “Waza entrance” 2011. U.S., Apple iPhone 4S.

「あとはー、宿の近くだと、日本食レストラン。鮨と鉄板焼き。」

「それ行きましょう」

「まじか」

僕はiPhoneアプリで周辺のレストラン候補を片っ端から読み上げていた。テキサスのど真ん中で、鮨?

僕たちは、ヒューストンの宇宙センターから市の中心部を抜けて、郊外の宿に戻ろうとしていた。

20代なのに、もう日本食が食べたいのかよ、と一瞬呆れてしまったのだが、彼の意図はそうでは無かった。世界のあちこちで作られている、地元の日本料理、そのとんでもっぷりを楽しむ、それを趣味にしているのだと言う。


WAZA、というのがその店だ。

「技」とはなかなか大きく出ている。Waza Teppanとネオンの灯ったファサードを潜ると、長いエントランスに竹があしらわれ、右手にウェイティングバー、そして奥が長大なカウンターとダイニングという作り。本格的だ。

過剰な竹の醸し出す雰囲気は、完全に上野のパンダ舎である。随所にあしらわれたネオンや、酒樽といったオブジェが、マイアミバイスに於けるオリエンタルなクラブ、といった空気感を醸し出していて、大変に好ましい。


僕たちのテーブルに着いたウェイターは中国人。我々が日本人である事に、かなり動揺していた。

日本人のお客さんをもてなすのは初めてだ、と言う。脚を伸ばせばメキシコ国境にも行けてしまうヒューストンの日本料理店には、観光客も来ないのだろう。この店には、シェフも含めて日本人のスタッフは一人も居ないが、それでも良いかと念を押された。

我々は、鴨を醤油でといたワサビで食べようというのではない。テキサスっ子の解釈した日本食の神髄を、容赦なく供して頂きたい。鮨屋だと言うわりに、枝豆ギョウザなんかもある。ツマミから、鮨から、一通り頼んでみる。


前菜の、蛸の串焼きは衝撃的だった。良くもここまでこまこました脚を集めて串に刺したなという、むしろその技術に感心する。中国の屋台で売ってるサソリの串焼きみたい。考えてみれば、蛸なんて多分食べない人達なのだ。この人達は。

店長のオリジナル料理という土瓶蒸し。ウェイター曰く、これはオリジナルなので、食べ方を説明します。まず、酢橘を絞って、、てこれは日本の伝統料理で、オリジナル料理じゃ無いよ。店長は中国人に、自らの日本料理の知識をだいぶ盛り気味に示しているようだ。

枝豆ギョウザ、もはやこれは日本料理なのか?という気はするが、ちゃんと焼きギョウザなのが日本食として正しい。色も緑で楽しい。


店の料理は、はっきり言って高い。昨日まで食べていた、アンガス肉塊塩焼きとか、山盛りバター浸し海老とか、そういうものに比べたら。これは明らかに、高級店だ。皆、デートで来ている、家族を連れてきている、ここ一番な、そんな感じの客層である。

熱燗、というメニューがあって、いったい元の酒が何かよく分からないが、ビンテージのワインを味わうかのように、オッサンが誇らしげに飲んでいたのが印象的だった。

鮨は普通に美味しかったし、カニカマの握り具合も良かった。テキサスの一角で、日本食頑張ってる。誇らしい夜だった。

死に犬

Sleeping dog.

Photo: “Sleeping dog” 2013. Agra Fort, India, Richo GR.

犬が、寝そべっている。寝そべっているというよりも、地面にぺったりと張り付いている。

何かの本に出ていた、死に犬、というやつだ。


うだる日差しの午後、犬は少しでも涼味のある地面に寝転んで、動かない。たまに少し薄目を開けるやつもいるが、たいていは熟睡している。

これほど沢山の野良犬を、僕は見た事が無かった。タイにだって、マレーシアにだって、怖そうな野良犬は居た。でも、こんなに沢山、普遍的に見たのは初めてだ。

日本なら一発で駆除されてしまうであろう、完全な野良犬。体が大きく、薄汚れていて、そして多分恐水病も持っている、そんな動物が、四つ角毎に居ると言ったら言い過ぎだが、バス停毎には必ず居る。


インドでは、野良犬が人に追われる事はほとんど無いように見える。喧嘩をしていた犬の仲裁に入るインド人、というのを一度見た。犬にリードを付けて、散歩をしている光景は 2回見た。これは、マハラジャ犬と呼ぶ事にしたい。野良猫は、痩せて震えたのを一匹だけ見た。そして、野良犬を数え切れないぐらい見た。

たいていの場合、犬は無視されている。信号待ちのトゥクトゥクの前に出て、足で追い払われる事はあっても、傷つけられたり追われたりする事は無い。だから、犬たちも人間には安心している。

かといって、インド人が犬を暖かく愛玩しているかというと、全くそんな事は無い。足許に来ても、まともに見る事も殆どしない。その存在は、道端の草か何かとたいして変わらないようだ。


インドには、牛を傷つけてはいけないという法律が存在する、らしい。本当かどうかは知らないし、野良牛ならぬ野良犬が法的に保護されているのかは知らない。しかし、ある種の社会的なタブーによって、手が出せないのは確かだ。あるいは、生類憐れみの令の時代の江戸は、こんなものだったのかもしれない。

タイや、マレーシアで見かけた野良犬は、とても怖かったし、その存在に慣れることも無かったが、インドでは、あまりに多い野良犬に、じきに慣れてしまう。そうでなければ、街を歩く事も出来ない。せめて不機嫌にまかせた気まぐれで、噛んでこない事を、祈るだけ。そう、インドに於いては、あとは祈るだけ、という場面のいかに多いことか。