戦場カメラマン ジェームズ・ナクトウェイ

僕は戦争を食い物にしている、学者とか評論家とかを見るたびに、年に一度ぐらいは地雷掘りにでも行けよと思うのだが、戦場カメラマンはそれに比べれ ば自らを危険に曝しているという点に於いてまだ許せる。写真はその場に立たなければ、どんなに腕の良いカメラマンでも撮れないからだ。

しかし、それでもなお、被写体を搾取しているかのような、そんな印象は消しがたいものがあるのであって、素直に称賛する気にはなれない。人の不幸で 飯を食っている、成功している。カメラマン自身もまたそんな気分になることがある、それはノルマンディー上陸の写真などで有名な戦場カメラマンであるキャパも言っているし、現代で最も有名な戦場カメラマンの一人であるナクトウェイも言っている。

戦場カメラマン、ジェームズ・ナクトウェイ (James Nachtwey) の写真を初めて見たのは、ボスニア内戦が激化した頃だった。当時、日本のメディアがほとんど取り上げなかったボスニアでの戦いは、かろうじて一部のメディアが外報の転載という形で伝えていた。僕が見たのは、ドイツのシュテルン特約のボスニアの写真。トラックが、荷台一杯の兵士の死体を穴に流し込んでいる瞬 間を撮った一枚だった。

その写真の、あまりにも戦争の中に入った視点、冷静な構図と撮影技術は僕に強い印象を残した。当時は、別に写真が趣味でもなんでもなかったから、その撮影者の名前は見もしなかったが、後にたまたま買ったナクトウェイの写真集で、その写真もまた彼の作品であることを知ったのだった。


10月24日まで、東京都立写真美術館で上映されている映画 war photographer は、そのナクトウェイについてのドキュメンタリー映画だ。ある日曜日、僕は意味もなく一眼レフをリュックに入れ、電話で上映時間をチェックして、その映画を見にいった。

ナクトウェイの一眼レフの上に付けられた小型のCCDカメラ。映画は、新しい技術を使うことで、今まで本人以外の誰も見ることができなかった、戦場カメラマンの視点を、スクリーンの上に映しだしていた。ちょ うど、カメラ上部のステータス表示液晶と、モードダイヤルが画面下に入るフレーム。音声には、ナクトウェイの息づかいや、ダイアルをまわす音、シャッター 音、フィルムドライブのモーター音などが入る。

近い。息子を殺されて泣き叫ぶ母親を撮るナクトウェイ。冷静に、静かに近づき、露出を計り、シャッタースピードを調整し(このとき、マニュアル露出 モードで撮っていることさえ分かる)、シャッターを切る。普通、人にレンズを向けるというのは、そう簡単なことではない。特に、このような状況にある相手 に、レンズの存在を受け入れてもらうことは、とても難しいと思う。しかし、ナクトウェイは撮り逃げたりするのではなく、母親をとりまく親戚連中の中にゆっくりと入り、シャッターを押す。ナクトウェイのCCDから見ると、彼女達が、ナクトウェイの存在を受け入れていることが「ちゃんと」分かる。

ナクトウェイは、自分がそうやって撮った写真が、彼女の身に起こった戦争の悲劇を世界に伝え、ひいてはそれが、世界を良い方向に前進させると信じている。だから、シャッターが切れる。そこまでの信念。


何度も致命的な負傷をし、病気にもかかっている。ニューヨークのアパート兼仕事場は、あまりにもストイックで、そこに暖かさはない。現像し、ポジをピックアップし、コメントを整理する。そして、新しいフィルムをケースに詰め、ブーツの紐を締めて、また戦場に向かう。何故、そんなことをするのか。正直 意味が分からない。しかし、僕はスクリーンを見ていて、体が震えた。普通のリュックに、普通のシャツとジーンズ。キヤノンのEOSが 2台。そして、首から提げたプレスパス。ありふれたカメラという道具を使って、ここまでのことができるのか。いや、ここまでのことをしようとするのか。

映画館を出て、ちょっとくらくらしながら歩くと、そこはいつもの恵比寿の夜の街並みだ。ナクトウェイは今、戦場の写真と同時に、世界の貧困地帯の写真も手がけている。そして、そうした写真をメディアに載せることは、年々難しくなってくるのだと言う。スポンサーは、自社の製品の広告の横に、餓えで針金のようになった子供の写真を載せたがらない。

この男が、なぜそこまでして地獄を撮り続けるのか。成功して有名な自分と、戦場の硝煙のバランスをどうとっているのか。世界の進歩を、どうして信じられるのか。なに一つわからない。ただ、自分の中に大きな石を投げ込まれた気分なのだ。

参考文献1:inferno, James Nachtwey, 2000/03, Phaidon Inc Ltd, ISBN: 0714838152
参考文献2:ちょっとピンぼけ 新版, ロバート・キャパ, 1980/01, ダヴィッド社, ISBN: 4804800727

ライブステージ

その日、僕はとあるライブステージの袖で、スタッフの 1人として立っていた。昨日は、夜中まで設営とリハーサルにつきあっていたので、少し眠い。

ライブは、本番のステージが始まるまでに、裏方の仕事の多くが終わっている。前日の設営に始まり、莫大な量の機材とそのオペレーションはテストさ れ、リハーサルされ、再調整され、再テストされる。あとは本番で、段取りの通りに、間違いなく、コトを進めるだけ。100人近いスタッフの仕事が、観衆の 前でアーティストにきちんとパフォーマンスをさせる、ただそのためだけに注がれている。


実際のステージというのは、僕にとって初めての経験だった。いつかこんな日が来るかな?とは思っていたけれど、こんなに直ぐに実現するとは思わな かった。現場では最初、空気に圧倒される。まず、どこに立っていれば良いのか、あるいは座っていればよいのか、分からない。業界が違いすぎて、空気が全然 読めない。新人の頃みたいに、所在なく立ちつくすしかない。違う世界の、プロの現場。謙虚さと、臆病さの一線はなかなか見えない。そして、僕たちはお客さ んではなく、ある種の領域のプロとして呼ばれている。

自分達の受けもつ部分に、少しトラブルがあった。お願いして用意してもらった機器がうまく動いていない。しかし、トラブルが僕たちを落ち着かせ、いつもの自分達の仕事をすることを思い出させる。


徐々に埋まっていく客席を映すモニターを眺めながら、本番をじりじりと待つ。本当にいろんな世界があるんだなと思う。現場にどんな服を着てくればい いのか、それからして分からなかった。黒っぽい格好かな?と思ったら、だいたい合っていた。周りのブースの人たちは、じっと始まりを待っている。時間の経 つのが、遅い。

袖から見ると、ステージの上には、ものすごい光量のライトが降り注いでいる。暗闇から見ていると、ステージに踏み出すアーティストは、文字通り、光の中に歩いていく。

みんな、これを目指す。そういう気持ちが、少し分かるような気がした。当たり前の事だが、コンサートではアーティストが全てだ。アーティストのため に、100人からのスタッフが働く。そして、その何倍ものファンがたった一人の人間を見に来る。そんなことは、普通の世界では考えられない。


コンサートの始まりを告げる MC が流れ、僕たちの直ぐ横に立っていたアーティストが、ステージの光の中に手を振りながら出ていく。モニターに目を走らせて処理が正常に動いているのを確認し、舞台に視線を戻すとドッと観客が立ち上がるのがよく見えた。
「立ちましたねぇ!」

誰かが、低く叫んだ。


注:芸人でも歌手でも、スターでも大将でもなく、「アーティスト」と呼ぶらしい。

タクシードライバー

Photo: 基地のバス 2003. Tokyo, Japan, Sony Cyber-shot U10, 5mm(33mm)/F2.8, JPEG.

Photo: "基地のバス" 2003. Tokyo, Japan, Sony Cyber-shot U10, 5mm(33mm)/F2.8, JPEG.

ここ暫く、文章を見るのも、書くのもイヤになった。何だって同じだろ、そんな気分になった。どれも同じようなもんだ。

蝕む孤独と不安、諦めと失望、ちょっとした勇気と期待、幸になることと失うこと、やがて忘れること。そんな人生の標本が見たければ、マーティン・スコセッシのタクシードライバーを観ればいい。


そういえば、高校生の時だったか、「タクシードライバーは面白い」と熱心に僕に言っていた友達はどうしているだろう。僕はそのとき、いつも生返事で、この映画を観たのはつい最近になってからだ。

こんなものを見ている高校生はよくないよ。遅ればせながら、そう思ってみる。