テクニウム

このウンザリする厚さの本を読む気になってのは、一昨年のWired conferenceで著者のケビン・ケリーのセッションが出色に面白かったからだ。(テクニウム――テクノロジーはどこへ向かうのか? ケヴィン・ケリー著、服部桂翻訳、みすず書房 2014年)

この本は前から知っていた、多分書店で手に取ったこともある。しかし、時が熟していなかった。そして、再びこの本を手に取った2020年末は、この本が必要な時で、この本がドットを繋げる(あのスピーチで言及されていた、ホールアースカタログの編集者の一人は、まさにこの本の著者であるケビン・ケリーなのだが)時期なのだ。どこに行くのかはさっぱり分からないが、何かの潮流に乗って、このタイミングで、なにかの繋がりへの萌芽を感じたことは確かだ。

1年半前の自分のメモには、いささか不正確だと思われる引用を交えて、興奮気味に印象を書いている。曰く、

”テクノロジーは滅びない、その進化は縦ではなく、過去のアイディアが突然現れたりして進む。それは、我々が日々のネットの技術を評価して、これって昔もあったよね、みたいな事を言い合っているのが、あながち単なる懐古趣味と言うことはなくて、テクノロジーが本質的に持っている進化の仕組みがそうさせている。そんな指摘は初めてみたし、しかし、直観的に正しい指摘だと感じる。”

しかし、この本は、まだ途中なのだという感じが拭えなかった。ただ、何かの再スタートのきっかけにはなった。

赤いウクライナ(Червона Украина)

赤いウクライナ(Червона Украина)

Photo: “Червона Украина.” 2017. Vladivostok, Russia, Fujifilm X-Pro2, Fujifilm M Mount Adaptor + Carl Zeiss Biogon T*2,8/28 ZM, ACROS+Ye filter

今朝のニュースで、巡洋艦モスクワが曳航中に沈没した、というロシア側の発表が伝えられ、黒海艦隊旗艦の喪失が確定された。たまたま戦闘行動中に艦内で火災が起こって何故か弾薬に誘爆して総員退艦して波の高さ1メートルの嵐の中で曳航中に沈んだ、というインターファクス通信の報道を信じている人はさすがに居ないようだ、と後世への記録として書いておく。両舷側に対艦ミサイル発射管を並べた、素人目にも分かるモスクワの凶暴な外観はスラヴァ級ミサイル巡洋艦。ウラジオストクで見たヴァリャークはその姉妹艦だ。


ウラジオストクの軍港は、意外と近くまで立ち入ることができて、ロシア太平洋艦隊司令部の門の前を歩くことも出来る。軍港東側の記念公園的な所に停泊している古い船から、向かいの桟橋に停泊する太平洋艦隊旗艦ヴァリャークを間近で望むこともできる。意外とカジュアルなのね、という事に、驚く。

今、改めて調べてみると、ヴァリャークはもともとソ連支配下のウクライナで「チェルヴォナ・ウクライナ(赤いウクライナ)」の艦名で建造されたものだという。それがソ連崩壊とともに、ロシア海軍に編入され、艦名もヴァリャークに変更された。ふと考えると、日本海に、今朝黒海で沈んだ艦の同型艦が、同じ軍の管轄で、浮かんでいるという冷徹な現実に思い当たりもする。


世界に、法と秩序はもともと存在しない、自らの力でそれを創り出し守るしかない、ことを日々思い知らされていると感じる。そんな中で防寒迷彩服などの自衛隊装備が、ウクライナの人々に使われているのを見ると、日本も枠組みの中で思ったよりも動けているなと思う。非殺傷兵器のカテゴリで日本の過去の経験を活かすのであれば、サリン特効薬のプラリドキシム(PAM)の供与というのも考えられる。もっとも、日本がそれを必要とする事態も想定して、そもそもの備蓄を増やす、というのもセットになるだろう。

更に言えば、日本の工業力を活かして、もっと踏み込んだ正面装備の供給も考えるべきだとは思う。だからといって、「アタレ」と書かれたアサルトライフルや、山地に向いた車高調整可能なMBTを供与されても、それはそれで平原のウクライナ兵は困るだろう。そうなると、対MBT/IFV兵器としても、復興のためにも使えるトラクターとかが良いかもしれない。

クソ社内ベンチャー

数年前、相当に酷い内容の外部トレーニングに数日間参加した。内容は酷かったのだが、参加者は素晴らしかった。そこには、いろいろな会社から、だいたいが幹部候補というか、この人はコースに乗っているんだなという人達が多かった。(当時、僕はそういう感じでは無かったが数あわせで参加していた)皆、魅力的で能力が高いなと感じた。

しかし、その中に、なんでこの人が?という人が居た。彼は、ある日本の会社で、社内ベンチャーを手がけているという。彼のやった仕事、というか、ベンチャーのサービスは、その概要を聞いただけで、「それは、どうなんだろう?」と首を傾げたくなるものだった。(そのサービスは。とうに終了している)


どこかに書いたが、僕はベンチャー担当を暫くしていたので、そういったものにはちょっと慣れている。確かに、ベンチャーの世界には、成功する素晴らしい会社もある。が、数パーセントだ(小数点が付くかもしれない)。大多数は、失敗だ。自分がやっても、おそらくは積み上がるクソを作るだけだという確信がある。だから、他人を批判する気は全く無いのだが、なぜ、この人が会社のアセットを使って、ベンチャーをドライブすることができるのだろう?と、休憩時間に薄っぺらい話をくどくど続ける彼に相づちを打ちながら、純粋に疑問に思った。

そして、随分たってから、同僚に見せてもらった、まったく別の日本の会社の、社内ベンチャーについての資料を見たとき、その理由が分かった気がした。社内ベンチャーを推進するに当たって、「求められる人物像」がそこには書かれていた。正確に覚えているわけでは無いが、修羅場力、向上心、素直さ、そんな感じのことが書いてあったと思う。なにこれきもちわるい。これはブラック企業の管理職が求める都合の良い部下像、であって、ベンチャーを立ち上げる人間の姿ではないだろう。


しかし、ふと思うと前述の彼はそれを満たしていたように思う。(ある種の上司の受けだって多分良いのだ、だから参加しているのだろうし)つまり、そんな能力を使うと、社内のお偉いさんの気分を良くして、多様なステークホルダーの全ての顔を立てる、素晴らしいプランができあがるに違いない。ただし、利用者のことは二の次だ。関係者向けプレゼン資料の上でのアカウンタビリティーだけが高い、利用者無視のサービスが生まれるのだ。

そう考えると、とても納得させられる。と、同時に、日本で成功するベンチャーが生まれづらい、特に社内ベンチャーは、という理由も分かった気がした。