生きることと、死ぬこと

このページに書く出来事、というのは、全部終わってしまっていることだけだ。現在進行形のことは書かない、基本的に。だから、読む方だって気が楽だ。

今日は、ちょっと違う。生々しいものが読みたくない人は、これを読まない方がいい。


年末から、正月にかけて、僕は殆ど家から出ないで過ごした。例外は、病院に行く時だけだ。少し前の「今日の一言」で書いたように、僕の祖父が今、入 院している。年末の段階で、「年は越せないでしょう」と医者は言ったが、そんなことはなかった。新たな世紀が訪れた朝、彼の命も、新しい世紀の中で燃え続 けていた。

それから4日。既に意識レベルはかなり低下している。希望、という言葉も、どうにも扱いようが無く、家族ができることはただ待つことだけだ。電話のベルの響きが、たまらなく嫌な数日間。

何かすることがあるわけでもなく、何か手に付くわけでもない。ケーブルテレビで鬼平犯科帳 100時間スペシャル(これは凄い)をだらだらと見て、えんえんとWebを巡る。時間が過ぎても、状況は良くはならない。

それは、おかしなことなのかもしれないが、僕はえんえんとアダルトサイトを巡っていた。人の命が終わろうとする空気の中で、僕が求めたのは生。その一番、生々しいやつだ。あるいは、今まで書かなかった、神戸の友達の結婚の話の原稿を書いた。よく書けた。

また夜が来ようとしている。

注:このコンテンツは、後日消します。多分。

今世紀も、羊ページは続くようです

20世紀から引き続きご愛読の皆さん、こんにちは。羊ページです。今世紀も、羊ページは続くようですよ。

朝。アルコールの霧をまとった頭で、家の近所をテクテク歩いていると、ちょっと遅い冬の太陽が昇ってくる。寝不足でカラカラに乾いた目を向けると、森の近くの野球場では、早朝練習が始まっていた。

体に染みついた夜の空気を、刺すような冷気が払い去っていく。徹夜で飲んだ時、タクシーを少し遠くで降りることにしているのは、そのせいだ。新しく一日が生まれる瞬間を見てから、寝る。綺麗な光が見られる。まあ、体には良くないけど。


さて、正確に言えば、この文章は 2000年に書いている。そして、書きながら片手間に見ているテレビは、映画「市民ケーン」だったりする。つまり、僕が 20世紀最後にしたことは、「市民ケーン」を観ることと、ThinkPad に向かってこの原稿を書くことだったわけだ。(もしかすると、「風呂に入る」になるかもしれない。そこらへんは、予断を許さない)