最近、志賀直哉を読んでいる。
普通、日本の学校に行っていると、中学か高校あたりの国語の授業で「城の崎にて」という短編小説を読むと思うが、志賀直哉はその作者だ。本の内容と その感想は、そのうち(近くはない将来という意味だと思ってください)[小説鑑賞]の方に書くと思うので、志賀の小説全般を通して感じたことを少しだけ書 いてみる。
志賀直哉の文章ってどんなの?と考えると、難しい。あえて言うと、これこれではない、ということが多い。つまり、ドラマティックではないし、文学の 薫り高いわけでもない、冷めているわけでもない、退廃的ではない、情熱的でもない。むしろ、いろんな印象を取り去っていくと、志賀の文章が見えてくる。
志賀直哉の作品は、私小説と呼ばれるものだそうだ。それって、あえて言うなら、Web日記みたいな感じ?そうなのだ。物凄く大胆に言ってしまえば、 Web無き時代のWeb日記。読まれることを前提にした、私的な文章。そんな、志賀直哉の小説を読んでいて僕が感じたのは、ある種の安堵だった。
僕自身、4年以上にわたってこの[今日の一言]を書きつづけてきて、自分の書きたいものとか、書きたい文体とかがほんの少し分かってきた気がする。 それは、今ある普通の小説のような物よりも、むしろ志賀が書いていたような、これこれではない、という感じのものだ。志賀の文章を追いながら、僕は何度も こう思った。
これが文学?これでいいの?そうか、こういうのを書いて良いのか!自分でも、こういうのを書いていいのか!
もちろん、志賀みたいな文章はいくらでも書けるとか、そういうことが言いたいのではない。ただ、自分の心を、こんな感じで文章にすることが、たぶん間違ってはいないのだ、ということに気がついた。それが、僕の感じた安堵の理由だった。