東京から乖離する

駅に降り立つと、奇妙な乖離感。

太陽が、頭の上に向かってぐんぐん昇る。空気がじっとり熱い。体に潜り込む、饐えた臭い。どす黒く汚れ、ベタベタした歩道。壁には、引き剥がされた ポスター、墨絵のような雨だれ。歩く人びと、投げる視線とコトバ。見慣れたいつものトウキョウとは何かが違って見える。それは、アジアの一風景。この街と のなれ合いが、その朝だけ、ふっつりと消えた。そんな感覚。

いつもとは違う道を、てくてく歩いた。

通りには、沢山のチラシを貼り付けた看板。砂埃、人いきれ、なんて汚い街。路地に飛び込むと、携帯電話で何かを話す若い男と目があった。コトバは、聞き取れない。濃い緑の、ジャガーが横断歩道を走り抜ける。


やがて、高層ビル群を傍らに望む、大通りに出る。道路は、ぴしっと直角。真っ白なセンターライン。強いビル風が、背後の喧騒を吹き飛ばした。重なり合う、幾つものビルのシルエット。夏なのに高い空。そして、空に解け合う数千の窓。息を飲む透明さ。

三者三様。

「でっかい幼虫を見つけてさ」
ふむふむ
「こりゃーカブトムシだと思って、大事に大事に育てたのよ」
ほうほう
「でさ、出てきてみたら、でけえカナブンだったときは、ショックだったわ」


「やっぱりね、ローキックが効くんだよ」
なるほど、さすが元拳法家
「初心者は、足から出ちゃうんだけど、腰から押し出すように蹴るわけ」
ははぁ
「こうね、こうっ、、、ぐ、、つった、」


今日の松屋はまずかったなぁ
「そりゃそうですよ、新宿の松屋はみんな、あんなんですよ」
あ、そういうもんなんだ
「吉祥寺は、まあまあですね」
深いな、、。


三者三様。
人の中には、いろんな事がつまっている。

戦争の記憶

今年も、敗戦記念日が近くなった。

実に、これは「敗戦」なのであって、もしも勝っていたとすれば、この戦争への評価は、また異なっていたに違いない。一見、反戦平和は人類共通の価値 観、のように言われるけれど、そんなに単純なものではあるまい。もし、あの時勝っていたら、今と同じ評価を日本人は下し得ただろうか?


「街は平和への祈りに包まれていました」

毎度お馴染みのセンテンス。まあ、こう結んでおけば苦情の電話もかかってこまい。

この季節にニュースの原稿を書く人間の思考は、多分、そんな風に動くのだろう。つまり、彼らにとって、そんなものはどうだっていいのだ。


「戦争の記憶なんて、忘れてしまえばよい」

その通りだ。

あるいは、こんな風にも言える。人それぞれに、同じ質量の人生がある。戦争の人生を伝えなければいけないのなら、他の人生だって伝えなければおかしい。