キーボードを買いに行く

Photo: "Kanda River"

Photo: “Kanda River” 2002. Tokyo, Japan, CONTAX T3 Carl Zeiss Sonnar T* 2.8/35, Kodak 400TX.

全てはネット通販で買うという信念があるのだが、キーボードを通販で買う度胸はなかった。秋葉原に向かう。雨の降る、蒸し暑い秋葉原で、キーボードの揃えが良いというパーツ屋に行ってみる。開店したばかりの時間帯だったが、店内にはやっぱりちゃんとマニアが居て、高校生か大学生か判然としないが、友達同士で周辺機器を選んだりしている。そういうのはとても良い景色で、受け継がれる何かだな、という気がする。

在宅勤務では、Logicoolのキーボードを使ってきた。今さら、プログラマー御用達の拘りキーボードでもないだろうと思ったのだ。しかし、日がな一日メールを書いていると、面白みのない(社会に適合した)キーボードの打鍵感にイライラしてくる。家なんだから、カチャカチャしたキーボードが打ちたいと思ってしまう。昔、テックパーツのADB(Apple Desktop Busだ。言うまでも無く)のキーボードをMacで愛用していた。カチャカチャ五月蠅かったけれど、コンパクトで値段も手頃、打ち心地がとても良かった。


少し調べてみると、テックパーツのキーボードに使われていたのは、ALPS黒軸と呼ばれたメカニカルスイッチだったようだ。現代で言うと、青軸がそのAPLS黒軸に多分近い。メカニカルスイッチのタイプライターのような(そんなものを使ったことは無いが)、打鍵音と感触には、成果を生んでいる感がある。成果?キーを叩くことが成果だろうか。少なくとも、十分なフィードバックは得られる。もう一つの特徴として、テックパーツのキーボードは、犯罪的に巨大なApple純正の拡張キーボードに比べて、格段にコンパクトだったのだが、そのキーサイズは今で言うロープロファイルに当たるようだ。

要件をまとめると、US配列のテンキー付きフルキーボードでMac/Win両用。ロープロファイルのメカニカルスイッチ青軸。バックライトはホワイトのみで十分。有線と無線両方対応で、Bluetoothの接続先を2-3系統切り替えられればなお良い。他に無駄な機能は不要。


実は、ロープロファイルを選んだ時点で選択肢はあまりない。諸々考慮すると、KeychronのKシリーズが一番希望に近そうだ。ゲーミングPCというような所には縁の無い僕は、全く知らないメーカーだったが、2017年創業の香港の(ほぼ)キーボード専業メーカーだ。最初に行った店にはフルキーボードは展示されて居らず、結局、秋葉原ヨドバシのキーボードコーナーが一番揃いが良くて、目指すモデルを試すことも出来た。在庫もあって、価格は2万円弱。HHKとか、REALFORCEとかの国産ハイエンドに比べると安く感じるが、キーボードばかりは自分に合うものが一番良い買い物だ。

買ったモデルは、キーボードブラケット脚(そういう名前だとは、今まで知らなかった)が付いてこないので、結局手首の角度が辛くなってしまった。パームレストを買ったり(これはLogicoolのものが良かった)、キーボードスタンド脚(ESC Flip Pro、まぁまぁの値段だが、納得出来る品質だった)を追加したりしてどんどん費用がかかっていく、のは予想通り。これらの追加で、ミスタイプは大きく減った。

キータッチは納得して選んでいるので、もちろん文句はない。Bluetoothのホスト側アダプタとの相性がかなりシビアで、Windows機では別途Bluetooth 5.0のレシーバを付けないとうまく動かなかった。リモート会議で打鍵音を拾ってしまうのでは?というのは杞憂で、AfterShokz OpenCommのマイクでは打鍵音は拾わないようだ。バッテリの持ちは悪くなくて、丸一日使っていてもWorking dayは持つ。ただし、オートスリープを切って運用すると、一晩でバッテリー切れになる。だからオートスリープでの使用が原則になるだろう。アニメーションパターンを持つバックライト機能は使わないと思ったが、Bluetooth接続がアクティブになっているかどうか、よく分かるので、結局は便利に使っている。スリープになっているときは、Shiftなどを押して「起こして」やる必要がある。


一日の疲れてきた終わりぐらいに、指が怠いような、そんな気分の時に、小気味よく反応するキーボードは、いささか爽やかに感じる。リターンキーを「ターン」とやるあの心理が、全てのキータッチで得られる、と言うと少し伝わるだろうか。ひんやりした金属筐体も、オレンジ色のアクセントカラーのESCキーも(通常塗色のキートップも同梱)気に入っている。結局、キーボードを気にする人間は、キャリアが何年になっても、キーボードを気にするのだ。

The mind is flat.

Photo: “菊花”

Photo: “菊花” 2001. Shinjuku, Japan, Contax RX, Carl Zeiss Planar T* 1.4/85(MM), Kodak EL-2

The mind is flat. (邦題は、”心はこうして創られる 「即興する脳」の心理学”)読み進めるほどに、諸相がつながる、そんな本に毎年1冊くらいは出会うが、今年それを体験したのはこの本だった。東洋の釈迦の教えも、西洋のマインドフルネスも、心の表層に生成される感情と反応への、正しい対応のあり方を説いている。そんな感情・反応といった、意識の「表層」として西洋の科学が捉えてきたものが、実は、意識「そのもの」である。それがこの本の冒頭で語られる結論であり、西洋科学がようやく東洋に追いついたのか、という気分になる。


目新しくは無い。日本人として、既に知っている事を、科学によって説明されている。そういう既視感がある。この本が刊行されたのは2018年で、これはGPTが産声を上げたばかりの時期だが、この本の序章の恐ろしさは、今だからこそ一般の我々にも肌身で分かる。LLMがやっている文章の認識と生成。これは、(もの凄く端折って言えば)文章の直前のコンテキストとそこから取り得る可能性を、既知の学習データから生成することで、何故か「知性」の存在を感じるに足るリアルさをもった回答を得ることができる技術だ。それは、何故なのか?深層心理も、考える仕組みも、意識も、持っていないアルゴリズムが、なぜそのような真に迫った回答を返してくるのか。


「それは、人の意識が同じアーキテクチャだからだ。」という恐ろしくも単純な結論が、序章で既に浮かび上がっている。脳のモデルをプログラムの形で実装することが失敗したのは、そもそも我々のアウトプットが、コーディングされたルールのような系統だったものではなく、ニューラルネットワークで示されるような、入力に対する反射的なアウトプットである事に原因がある。もちろん、我々の身体には、脳のカーネルと呼べるような永続的な部分も有るのだろう。例えば、感覚器官との接続などのBIOSのような部分を担うところは、確かにプログラムのような、コードのような要素であり、ハードコードされているようだ。しかし、「個」のようなものがコードのように脳の中に存在している可能性は低い。意識は、脳のインフラの上に浮かんでは消える(KillあるいはExit)アプリケーションなのではないか。その結果のいくらかは、永続的記憶に経験値としてコードされ、大半は忘れられ(パージ)ていく。そんなモデルの考え方が、いとも簡単に立ち上がってくる。

だから、AIがシンギュラリティになる。のか?そこまでは、よく分からない。しかし、この本で語られているモデルが突きつける、冷たい刃のような納得感は、拭いがたい。

シリコンバレーの凋落と、Uberの搾取。あるいは、BigBet.

Photo: “Big Bet from BURGER KING.”

Photo: “Big Bet from BURGER KING.” 2023. Tokyo, Japan, Apple iPhone 14 Pro Max.

以下は、2020年に書いたメモから。時間は経過したけれど、基本的に感じていることは変わっていない、どころか強くなっていると思う。


少し前に何かのオンラインセミナーを見ていて(近頃はなんだってオンラインセミナーだ、とても助かる)、シリコンバレーで働くをテーマにしたパネルディスカッションがとても面白かった。ビッグテックで働くキラキラライフ、みたいな内容かと思ったら、パネラーの中にシリコンバレーは将来デトロイトみたいになる、と断言するアメリカ人が居て面白かった。

実際、シリコンバレーから他州に本拠を移す企業は増えているし、新しく注目されるテクノロジー企業は、米国が本社ではなかったりもする。それはともかく、彼はシリコンバレーが見捨てられる一つの理由として、それが生み出した経済の「業」について言及していた。曰く、当時シェアリングエコノミーの輝ける星だったUberを、一握りのテックが儲けるだけの搾取の仕組みだ、と言い切っていたのだ。

Uberは、人生はお金に変換可能だ(残念ながら、その逆は無い。)、という事を分かりやすくデジタルに現出させる。Uberを、お金がもらえる位置ゲーと捉えられる人にとってはなかなか良いだろう。そうじゃなければ、厳しい。街を急ぐ、コミュニティーサイクルにまたがった自営業者の姿を見ながら、ある種の寒々しさを感じるのは、僕が十分にテックの明るい未来を信じられていないからだろうか?


こうしたサービスの捉え方は、その人の立場によって違うだろう。時間は無限にあって、それを換金することが、とても割の良い取引に思えるなら、つまり一般的に言えば十分に若い人にとってなら、自由で選択的な働き方として、魅力かもしれない。しかし、何の経験値も残らない、何のロードマップも無い、使う側からすれば、無限に取り替えが利く。いかに洗練されたシステムが構築されていたとしても、本質的には代替可能な労働力を効率よく使うというのが、鍵になってしまう。

もちろん、そういう種類の労働は無数にある。ただ、それをテックが追求したときに、恐ろしく逃げ場の無いものができあがってしまうのではないか。それは恐らく、理想と、善意と、相当な無関心、あるいは想像力の意図的な欠如によって運営される事になる。なお悪いことに、利用する側にとっては、とても便利でコストパフォーマンスは高いに違いない。


ーーー2023年。初めて、Uber eatsを使ってみる。家までバーガーキング(徒歩圏には無いのだ)のBigBetを運んできてくれた青年は、恐ろしく感じが良くて、180センチはありそうな堂々とした体躯だった。完璧なコンディションで届けられたワッパーを受け取りながら、とはいえ、Uberをやることは2023年現在、まだ十分にクールな事なのかもしれない、とも思った。