ビジュアライザ

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まだ、mp3等が出る前、MMLベースのミュージックプレイヤーの頃から、ビジュアライザが大好きだった。(ビジュアライザという言い方が正しいのかな。iTunesで言う、ビジュアライザ。WMPで言う視覚エフェクト)
初期のものは、いい加減なスペクトルアナライザとか、チャンネル毎のボリュームぐらいしか出なかったのだが、音楽に合わせて動くバーを見ているだけで、なんか楽しかったのだ。
mp3が出て、マシンパワーが上がると、ビジュアライザも進歩して、Music Matchなんかのビジュアライザは、かなり格好良かった記憶がある。音に合わせて、変化する波形を、多段に重ねて、変形させていく処理を見ていると、リアルタイムに芸術作品をつくり出しているような錯覚すら覚える。
そんなビジュアライザの中で、ひときは格好良いのが、iTunesのビジュアライザだ。ビジュアライザの仕事は、たいてい、ある基準点の波形に色を付け、時間経過とともに、変形・変色させていく繰り返しだ。その変形のさせ方、組み合わせ方、色の選び方、変化のタイミング。そういったものの、洗練のされかたが、とても凄い。
リリースノートとかちゃんと読んでいないのだが、アップデートのたびに、ビジュアライザにも手が入っている気がして、いつも新鮮なビジュアルイメージを見せてくれる。下手な、PVよりもずっと良い。
ここまで考えてくると、いつも突き当たるのが、これは機械が生み出している芸術なのか?あるいは、プログラマが生み出した芸術なのか?それとも、受け手が感じている芸術なのか?というようなこと。
ビジュアライザが生み出す映像は、時として、下手に人間がつくるイメージなんて及ばないようなものである。しかも、それを絶え間なく生み出してくる。そうなったときに、個々のイメージの価値は、どれほどのものなのか??全自動で出てくるイメージに、人はどれだけの価値を見いだすんだろうか。

iCon

スティーブ・ジョブズ-偶像復活
そもそも、僕がコンピュータ業界で働こうと思ったのは、ジェフリーヤングが書いた「スティーブ・ジョブズ」(1989年刊)を読んだことがきっかけだった。パーソナルコンピュータの黎明期を描いた、とても良い本だった。

そして、僕は自分が思ったとおり、コンピュータ業界で働いているわけだが、ITバブルとインターネットの勃興に支えられたエキサイティングな時代は終わり、業界もかわり、一言で言うと「あまり面白くなくなった」。

その今に、もう一度原点に帰ってみるのはどうか。先頃出版された「スティーブ・ジョブズ」の続編とも言える、「スティーブ・ジョブズ-偶像復活」を読んでみた。Apple設立から、取締役会によって追放されるまでの前半を、前書を思い出しながら読み、そして、Pixer設立、Appleへの復帰、そしてiMacとiPodによる栄光の復活劇まで読み進める。


最初のスティーブ・ジョブズを読んでから 15年後に、改めてたどるジョブズの軌跡だが、やはり当時とはだいぶ違う感じ方をした。そして、描かれるジョブズの人間像にも、大きな変化があったように思う。

強烈なビジョンの力を信じ、未来と運命をそれに従わせる力を持った男。そのビジョンは世界を変えると、「信者」達は信じて従ったわけだが、その浮かされたような時代は終わったように見える。しかし、円熟したジョブズのビジョンは、より広い市場へのアプローチを可能にし、iPod や Intel Mac といった、新しい地平を拓いている。

この本の読みどころは、あるいは、後書きの部分かもしれない。印象的だったフレーズを二つ。

あるインタビューで、

コンピュータとテクノロジーについては、「これで世界が変わるわけじゃない。変わらないんだ」
(中略)「わるいけど、それが事実なんだ。(中略)人は、生まれ、ほんの一瞬生き、そして死ぬんだ。ずっとそうだ。これは、技術じゃ、ほとんどまったくと言っていいほど変えられないことだ」

誰あろう、スティーブ・ジョブズの言葉だ。あの、1984のCMフィルムをつくらせた、ジョブズの。

もう一つ、スタンフォード大学の卒業式で

毎朝、「今日が人生最後の日だとしても、今日、する予定のことをしたいと思うか」と自問する

という話。ジョブズにとっての、あらゆることのプライオリティーが変わったのかもしれない。これほどの男が、15年の間にこんなにも変わるのかと思う。とは言っても、同じ祝辞の中で、こうも言っている

「ハングリーであれ。分別くさくなるな」

そこには、革新者としてのジョブズが健在だ。

テレビは貧者の王様

Photo: テレビ 2005. Contax i4R, Carl Zeiss Tessar T* F2.8/6.5.

Photo: "テレビ" 2005. Contax i4R, Carl Zeiss Tessar T* F2.8/6.5.

僕は平日はほとんどテレビを付けない。地上波はもっと見ない。いくつかの番組は(特攻野郎Aチームとか、、)、RD-X5 が勝手に見ておいてくれるので、週末に気が向いたら見るし、撮るだけ撮って削除してしまうこともある。何で見ないか?というとそこにはもう面白いものはあまりないし、新しいものも無いからだ。テレビは、もう先端じゃないのだ。

テレビの現状、ということについて、最近読んだ大橋巨泉のインタビューが面白かった。最近の視聴率低迷、テレビ離れという状況を評して、「勝ち組とか金持ちとかインテリがテレビを見なくなっただけ」で、「テレビは今に「貧困層の王様」になるはず」だと彼は言う。


業界の人間は、皆分かっていても、怖くて言えなかった真実だと思う。実際、今の日本の地上波テレビというのは、最も安価で安易な娯楽である。テレビは貧者のベビーシッターであり、老人介護マシンであり、話し相手だ。

作り手の「志」、あるいは、視聴者の「民度」による番組品質の向上あるいは低下という議論は別にして、テレビの主要な収入源である広告、それを支えるスポンサー、その商品を買う視聴者、という図式で考えると、視聴者が貧困層中心になるということは、そこから期待される購買力は下がり、結果として広告料は下がり、制作費は下がり、番組の程度は落ちる、ということが容易に想像される。

テレビの歴史は、金持ちしか買えない憧れのテレビ→皆が見るメディアの王様としてのテレビ→低所得者層の安価な娯楽としてのテレビ、という変遷をたどる。テレビは今や最後のステップに入りつつあり、メディアの王様でもなんでもない、one ofのメディアでしかない。歴史の流れは止まらないのであって、「底流」のための娯楽として、更に程度を落としていくことは間違いないのだろう。

日経ビジネス EXPRESS : 【大橋巨泉氏】
http://nb.nikkeibp.co.jp/free/tvwars/interview/20060127005218.shtml