サイト評価サイト

こんにちは、「孤高のサイト」羊ページです。

別に、孤高でなくていいが。

さて、あまりにも孤高だとつまらないので、羊ページも律儀に幾つかのリンクサイトや、サーチエンジンに登録している。そうすると、都合の良いことば かりではなく、面倒な事態も発生してくる。例えば、サイト評価サイトなんていう社交的なんだか、内向的なんだかよく分からないサイトに、勝手に評価され る。

表向きは、「知ったことか」という態度を堅持するわけだが、そこはそれ、やはり気になる。誉められれば嬉しいし、まして、「自分が出したい味」みた いなものを的確に評価してくれている紹介文は、凄く嬉しい。「静かな共感が湧く」とか書かれると、よく分かってくれました、などと思う。

人は誉められたいし、認められたい。誰も、率直な批判なんてされたくない。だから、もしサイトを評価をするなら、酷くけなさない、少しでもいいから 何か誉める、ぐらいのことは最低守って欲しい。けなすぐらいなら、書かなければいい。よく、公開するからには批判も甘んじて受けるべきだ、なんて書く人が いるが、そういうことを書くヤツから先にメタメタにされればいい。

で、この羊ページも、気がつくと結構いろんな所で評価されているようだ。おおむね、なにかしら良く評価していただいているようで、密かに嬉しく思っ ていた。しかし、1つだけ、とことんむかついたサイトがある。そう、羊ページ管理者は、近年まれに見る、憤りを感じている。それは一部では有名なサイト評 価サイト、ホソキンズルゥムだ。(管理者の細田氏は、リンクの際は一報してほしいと書いているが、氏は羊ページには無連絡でリンクしたので、僕も無連絡でリンクする)

かのホソキンズルゥムによれば

羊ページ おすすめ
  全体に枯れた雰囲気のある若者ページです。しかし趣味がスキーで、好きな作家は村上春樹、というのは…あー、渋茶がうまい、って世界ですね。でも日記は雑文的にまとめていて、読ませる技術はあります。

書いてあること自体は、そんなに変ではない。コメント書いた人、文章下手だね、という印象は持つにしろ、何か悪口を書かれているわけではない。で も、「しかし趣味が」とか「技術は」とか、言葉の端々に出る、人の神経を逆なでする鬱陶(うっとう)しさはどこから来るのだろう。なんでそういうことを書 いてしまうのだろう。答えは明白、それは「ちゃんと読んでないから」だ。

そう、読んでない。恐ろしくいい加減にしか読んでない。にもかかわらず、さも読んだ風な顔で書かれた評価。一生懸命サイトをつくっている人に対し て、凄く失礼だ。そして、ホソキンの批評を読んだ管理者のいくらかは、そのことに気がついて、憤慨するのだ。ちゃんと読まなければ、つくり手の気持ちを無 視して、無神経なコメントをつけるのは容易だ。この「読んでいない」というのは、量を読んでいない、ということでは、もちろんない。作者が、そのページ に、その文章に、なにを込めたかったのか、そういう部分に対する理解が全く無い、という意味である

羊ページは、ホソキンで「おすすめ」に推薦されている。それでも、その評価がいい加減であることに変わりはない。何時間も、時には何日も試行錯誤し てアップするコンテンツに対して、「技術がある」と書くのではなく、「技術はある」と書くことが、どれだけ作者の気持ちを踏みにじるか、、。評価対象のサ イトを全部・必ず・読め、と言っているのではない。ちゃんと読まないなら、読まないなりの書き方が別にあるはずだ。

羊ページでは、原則としてサイト評価サイトのコメントに対しては、リアクションしないことにしている。ネットの世界では、軽はずみにそういうことを すると、直ぐに不毛なフレーム合戦になってしまうためだ。結局、論争は何も生まない。しかし、ホソキンズルゥムの失礼なサイト評価と、それに憤る他の善良 なサイト作成者の声が、僕を立ち上がらせたのである、、。って、べつに戦わないけど。

まあ、ようは腹が立ったので、ささやかな復讐をすることにした。ホソキンズルゥム管理者の細田氏によれば、ホソキンの評価を受けた人は、自分のサイトでホソキンズルゥムをメタメタに言っても構わないらしいので、そうさせていただく。

羊ページサイト評価コーナー:

ホソキンズルゥム おすすめ(ウソ)
他のリンクサイトのリンクをパクってきて、勝手に評価しています。画面の設計が、未知の文化体系に基づいて行われているらしく、どこになんのコンテンツ があるのか私には分かりません。メインコンテンツである無断リンク集にはコメントがついていますが、日本語が独特すぎるので、読解は困難。また、その内容 は、辛口と悪口を履き違えており、不快です。

プチ成金

多残業によって、プチ成金となった友達の操るポルシェで家まで送ってもらった。頑張れば、人間20代にしてポルシェが買えるのである。

この友人の明快な金の使い方には好感が持てる。多残業による所得のようなあぶく銭は、あぶくなモノを買うことに使う。シンプルでいい考えかただ。

ポルシェに限らず、彼の発想と行動は、とてもシンプルで、それがこの複雑な日常のなかにあっては楽しく感じられる。イカ(烏賊)が安かったといっては箱ごと買って塩辛を作り、でかいテレビが見たいと思えば一戸建てでもないのにプロジェクターを買って天井に映し、残業であぶく銭が出来たといえば、ポルシェを買う。ロジックは主語と述語で完結している。こういう友達が、あなたの近くにいたら、素晴らしいと思いませんか?

しかし、ふと思うのは、僕は友達だからそれでいいとして、彼の嫁さんになるような人はどう思うんだろうか。会社帰りにイカを1箱買ってくる旦那、、。あ、塩辛好きならいいのか。

作者が弱っている

季節や自然や動物の話題が、「今日の一言」に出始めると、それは作者が弱っている証拠だ。そういう、意見があるらしい。ホントかどうか知らないが、とにかく今日は動物の話だ。

一つの事実として、僕は動物に強い。別に誇ることではないが。

それは、動物が大好き、ということではない。特に好きではない。僕の家の近所には、ペットとして「カモ」を飼っているとんでもない家があって、そこのカモの妙な鳴き声には日ごろから辟易している。あるいは、道をウロウロしている身元不明の犬猫と、ベタベタ唾液混じりのスキンシップを図るような趣味も、僕には無い。特に、動物が好きなわけではないのだ。

しかし、たいていの動物は、僕がそいつを好きであるか否かに関わらず、友好的、もしくは服従的、もしくは愛好的である。僕は、誰もお手をさせられない犬にお手をさせたりできるし、普通は難しい初対面の猫を手なずけることもできる。動物が特に好きなわけじゃないのだが。

ある時、神社の境内で、池の辺に座り、ぼんやりと水面を見ていた。秋の気配が満ち、寒々しい景色。その日、弱りに弱りきっていた僕は、何をするでもなく、枯れた蓮の茂みを眺めていた。すると、そこらへんをウロウロしていた鳩どもが、僕の足のつま先に乗っかり始めた。 1羽、2羽。そして、僕にはおかまいなしに、つま先の上で喧嘩(もしくは、じゃれあい、区別不能)を始めた。

僕は枯れ木か何かか?

犬猫に強い、というのであれば、ある種の接し方やテクニックの要素があるかとは思うが、野生の鳥類となると、先天的資質なくしては、なかなか難しいところだ。

動物は我々の心を見透かす、と思う。彼らの頭が良いのかどうかは知らないが、少なくとも「気配」のようなものには、とても敏感だ。表面上、いくら可愛がる素振りを見せても、その奥に「よこしま」な気配があれば、たちどころに見破る。特に、「俺は人間様だぞ」という気配を、彼らは嫌う。まして、「動物と仲のいい俺」みたいなもの無理強いするのは、更に良くない。

僕は、動物は別に好きでもなんでもないので、単に「ああ、いるなー」と思って彼らに接する。逆に、そういう距離の置き方が、彼らに対しては重要なようだ。

なんだ、人間同士と同じじゃない。