最悪の晩飯

先週は、かなり最悪の一週間だった。何が最悪かっていうと、晩飯が。

半月ぐらい前から、深夜まで会社に居残ることが多く、その間はずっとコンビニの飯を食っていた。しかし、もはや限界。

コンビニの弁当というのは、とりあえず棚に並んでいるものを見ている分には楽しいし、色とりどりで美味しそうだ。しかし、食べ続けるうちにげんなりして、疲れてくる。確かに、見た目には色とりどりで鮮やかなのだが、どれを食べても、実は味はそんなに変わらなかったりするし、最初は楽しい「体に悪いもの食べてる」という罪悪感も、ほんとに体を壊しそうになってきて洒落にならなくなる。

コンビニ弁当を食べ続けると体がおかしくなる、というような話はよく聞くが、たしかにその通り。なんとも言えない気分の悪さが、「食べるたびに溜まってゆく」ような気がするのだ。火曜日あたりには、発疹まで出てしまった。僕にはとことん合わないらしい。(平気な人も居るみたいだし)

そういえば、コンビニの弁当というのは、食事としてはちょっと変わっている。見た目は「一食」という体裁をとってはいるし、「ほか弁」のようなものと大差なく見える。いわゆる「弁当」である。ところが、食べてみた感触はビニール包装された工場製のパンのようなものに非常に近い。工場で生産された「製品」。


コンビニの食事は、衣食住に縛られていた人間の生活スタイルの一部、「食」をかなり自由にした。しかし、それはそれでやはり無理がある。人間は、結局、ちゃんと食べないと生きていけない。コンビニのサラダを食べてみても(いちおうバランスには気をつかって、サラダなんかは付けるようにしている)、不思議なことに生の「生き物」を食べているような気がしない。大根サラダの大根は、シャリシャリした大根のような歯触りはあるが、その味には、なんというか完全に根っこが無いのだ。こういうものを食べ続けていると、自分が何によって生きているのか、分からなくなってしまう気がする。

それは凄く不思議な感覚だ。貧しくて栄養価の低いものしか食べられない、というのとは違う。言ってみれば、高度にソフィスティケートされた、高価な貧しい感覚。

もちろん、コンビニの弁当そのものを批判する気はない。それは商品・サービスなのであって、それを買うか買わないかは利用者の勝手だからだ。コンビ ニ弁当の開発・製造をしている方々には、これからも頑張っていただきたい。ただ、僕みたいな人間は、これだけではとても生きていけないことが、よく分かった。


さて、週末はお客さんと一緒に焼き肉に。お客さんお勧めの店だけあって、「美味しい」というより「旨い!」をいうような感じでした。ようやく、コンビニ地獄に終止符。

雨はキライ

夜11時過ぎに会社を出ると、外は嫌がらせのような土砂降りだった。

雨の日は、たとえ背広を着ていても(今日は珍しく着ていた)トレッキング・シューズで来るのだが、そんなものでは防ぎようがない程の勢い。どこもかしこも、水浸しだ。

そして、ようやく雨を避けて駅の地下道に入ると、今度はムッとしたジメジメ空気。空気が目に見えるように淀んでいる。

てめえ、働いてる人間になんて仕打ちをしやがる、と意味もなく、相手もなく怒りたい気分だった。

前回の[今日の一言]では、「雨は好きだ」と書いたが、やっぱキライ。カリフォルニアに住みたい。

雨は好きですか?

雨は好きですか?
こう訊かれたら、どう答えようか。

僕は、雨は好きだ。凄く凡庸に言えば、雨は小休止みたいな時間をくれるから好きだ。


カラッと晴れた朝は、なんかいろんな事がうまくいきそうに感じる。もっと、いろんなことを頑張ることができそうな気がする。(たいていは、気がするだけだったりするが)

しかし、毎日そんなんばっかりでは疲れてしまう。アメリカ西海岸の、「今日の天気、晴れ」「明日の天気、晴れ」「明後日の天気、晴れ」「明々後日の、、」みたいな、際限のないカラリ天気で長く暮らしたりしたら、きっと自分の性分みたいなものまで変わってしまうだろう。

雨が降っていると、なんとなくいろんな事を後回しにして良さそうな感じがする。まあ、今日は休んでおけや、、、とでも言われているような気がするのだ。

適度に雨の降る日本という場所で育った僕の体には、雨の存在を必要とするリズムのようなものが確かに存在していると思う。人が夜休むように、晴ればかりではなく、雨の与えてくれる休息のような時間が、僕には必要だ。

雨は、好きだ。