九份ってどうなのよ?

Photo: “Crowded stair in Jiufen.”

Photo: “Crowded stair in Jiufen.” 2015. Keelung, Taiwan, Richo GR.

台湾通の友人に「九份ってどうなのよ?」と聞いてみる。

行ったことが無いなら行けば良いけど、一度行けば十分だよ、と返ってくる。まあ、なんとなく分からなくもないが、行かずに偉そうなことを言うこともできない。

九份への道のりは、実際結構面倒くさい。台北からだと台鐵の電車に乗って瑞芳駅まで行き、そこから地元の路線バスを乗り継ぐ事になる。台湾のバスは、スマホアプリとの連動も良いし、Google mapsで出てくるルートも正確なので、自力でなんとかなる感じ。


で、もの凄い人混みに、もう帰りは疲れてしまって、タクシーにした。台湾のタクシーはそんなに高くないので、最初からタクシーで良かったじゃん、という気分になった。そのまま台北市街で小籠包と金牌ビールで一息。

さて、九份ってどうだったの?一度行けば十分だよ、としか答えようが無い。

台南、休日の朝の牛肉湯(石精臼牛肉湯)

Bouillon for breakfast.

Photo: “Bouillon for breakfast.” 2016. Tainan, Taiwan, Apple iPhone 6S.

台南、二度目。ホテルの朝食は予約していない。台湾人が週末の朝に食べるものを食べたい。Xiaomi の地元アプリで、繁体字を解読しながら牛肉湯の店を見つける。Xaomiの画面を見せると、タクシーの運転手は直ぐに場所を把握した。


店は台湾のよくある路面店。通路に面したカウンターで、青い Tシャツ姿の大将が赤身の固まりを切っている。既に熱気を帯び始めた台南の朝。

牛肉湯は熱いスープに、赤身の牛生肉の細切りを入れて、しゃぶしゃぶというか湯上げのようにして喫する料理。一緒に、魯肉飯も頼みましょう。朝飯には重そうだが、上品なスープに、脂っ気のないさっぱりした肉で、とても軽く感じられる。そこに生姜のアクセント。暑い台南で生肉?とも思ったが、表面にしっかり熱が入るし、これはとても気候に合っているように感じた。


食べ進んでいると、店の人がレンゲにスープを取れという。卓に備え付けの、「米酒」と書かれた調味料を入れてくれる。沖縄に於けるコーレーグースのような、そんな風味が付く。なるほど、レンゲで試して気に入ったらどうぞという事か。そんな細かい気遣いを、地元の繁盛店で受けられるとは思わなかった。

向かいのテーブルでは、小さな女の子と父親が、親子で朝ご飯だ。シンプルな肉スープを前に、いささか退屈げにしている彼女にとっても、やがては忘れられない懐かしい故郷の味になるのではないかな、と思う。

なんだろう、何年後にでも戻ってきて食べたい、そういう味なのだ。お会計は全部で 200円ぐらい。安いね。

台南で君が代を歌う日、鎮安堂飛虎将軍廟

Mausoleum of Japanese Zero pilot.

Photo: “Mausoleum of Japanese Zero pilot.” 2016. Tainan, Taiwan, Richo GR.

タクシーの運転手に行き先を見せると、特に説明も無く理解された。それなりの頻度で、訪ねる人が居るのだろう。冷房の効いたトヨタ車で、日差しの強い台南の街を20分ほど走る。台湾にはトヨタが多い。

コンビニのある十字路に、鎮安堂飛虎将軍廟は有った。イメージとしては、なんとなく人里離れた廟をイメージしていたのだが、その由来を考えれば、市街地のど真ん中にあって不思議では無い。

「歓迎 日本国の皆々様ようこそ参詣にいらっしゃいました」と、日本語で書かれた横断幕が、僕たちを迎える。


この廟の由来については、wikiなどに書いてある。太平洋戦争末期にこの地で戦死した、旧帝国海軍の零戦パイロット杉浦茂峰兵曹長を祭る廟だ。日清戦争後に日本の統治が始まった台湾の日本に対する感情は、やはりアジアの他のどの国ともまた違っている。とはいえ、帝国軍人が祭られる廟が、国外にあることに驚いたし、一度訪れてみようとも思った。

台湾でのお参りの手順は、いささか複雑だ。火を灯した長い線香を持って、決められた順路を反時計回りで回っていく。要所要所で線香を挿すが、それは必ず3つずつというのを守る。そうして、神像の前まで来て、お供えの煙草に火を灯す。

飛虎将軍は煙草が好きだった。だから、亡くなって70年を超えたこの日にもなお、台湾の人々は煙草を供えている。もちろん、煙草も3本だ。羽田空港できっと若葉かなにかが手に入るだろうと思ったのだが、もうそんな銘柄は売られていなかった。メビウスではあんまりだから、せめて昭和の香りがするセブンスターを買い求めてきた。


「では歌いましょう」

そう促されて渡されたパンフレットには、君が代の歌詞が書かれている。CDプレーヤーから流れる曲に合わせて、君が代を歌った。最後にこの歌を歌った時の記憶は既に無く(キリスト教系の学校だったから、君が代はほぼ御法度なのだ)、自分がこの歌を台湾の人達と一緒に歌っていることに、いささかの驚きを感じた。

「では続いて」

“海ゆかば”を僕はだいたい歌える。軍人だった祖父の家には、鶴田浩二のレコードに混じって、ソノシートの軍歌が何枚か置かれていた。音が出る安っぽいプレーヤーをいじるのは面白く、軍歌の意味はあまり分からずに、夏休みに遊びに行った時に聴いていた。その記憶が、あっという間に蘇る。

“海ゆかば、水漬く屍・・”

海外で、大戦中の軍歌を、公共の場で歌うのは、まったく思ってもいない事で、日本国内ではほぼタブーであろうこうした事が、自然に続けられていることに、むしろ、ある種の歴史の継続性のような、言葉を選びづらいが、より健全な何かを感じた。歴史は続いているし、無かったこと、見ないふりは、出来ないのだ。


ちょうどお昼時。廟の人達が昼食に出かけるタイミングで外に出る。暑い日で、向かいのファミマで涼むことにする。アジアで大人気のぐでたまグッズを冷やかし、イートインコーナーからガラス越しに見るともなく廟を見ている。地元の人が歩いてきて、廟の前で立ち止まり、一礼してまた歩いて行く。

「私たちは、地元の学校で、子供たちこの歴史をずっと教えているんです」

それは、きっと深く根付いているのだろう。ジェット機で成層圏を飛んでもなお、東京から4時間以上かかるこの地が、かつて日本であり、そこに生きてきた人達が居て、歴史はその続きで流れているのだ。亡くなったときのパイロットの年齢は二十歳。日本の降伏まで、あと1年も無かった。