うんこプロバイダ

今回の今日の一言には、一部に、「排泄物」を意味する言葉が使用されており、不愉快な気分がするかもしれません。ご自分の判断と責任でご覧下さい。

村上春樹の小説、「1973年のピンボール」で繋がっていたのは配電盤だったが、今はいろんな繋がりかたがある。

携帯電話。

いつも誰かと、ひっきりなしに携帯で話している人がいる。あるいは、電車に乗っている間、携帯にずっとメールを打ち込んでいる人がいる。僕は、携帯電話の存在自体に関心が無い。ただ、世の中から行方不明にならないように、一応持ってはいる。雪山のビーコンみたいなもの。

僕の携帯にかければ、いちおうはつながる。ただし、僕は着信音が大キライなので、常にマナー・モードにしている。お陰で、着信に気がつかないことも 多い。それでも履歴や伝言は残るので、用は足りる。もちろん、端末の機能もほとんど使わない。登録した電話番号の消し方さえ知らない。お陰で、友達の番号 が変わると、どっちが新しい番号か分からず、大変困る。

ようは、携帯なんてどうでもいいと思っている。だから、自分の部屋で携帯がときどき圏外になっても(事実、よくなる)別になんとも思わない。通話がぶちぶち切れても怒らない。しかし、Internet への接続となると、話しは別だ。


Internet。

通勤や飲み食いの時間を除けば、平日の僕は常にオンライン状態である。会社にも家にも、Internetの環境が整っている。良いことだとは全然思 わないが、どちらも常時接続なので、つなぎっぱなしの環境に慣れてしまった。だから、家のプロバイダがおかしくなって、Internetにつながらないの は、とても困る。家に帰ったら、テレビがつきませんでした、というぐらいに困る。別に、Internetにつないで何をしているわけでもないけど。

そういう訳で、今のプロバイダには、かなり不満がつのっている。もうプロバイダの悪口はよそうと思っているのだが、最近の、週に 1、2回は接続不能という状況は、なんとも酷い。AT&T のことではない。AT&T は、とても良い。そうではなくて、常時接続に使っている、地元のケーブル・プロバイダの方だ。

プロバイダに恵まれない人は、いつまでも、よいプロバイダを求めて乗り換えつづけるという。僕は、そう簡単に乗り換えたりしないが、恵まれているとは言えない。AT&T をのぞけば、僕の選んだプロバイダは、どれも「うんこプロバイダ」である。

どうも、僕には「うんこプロバイダ」に繋いでしまう天性の素質が備わっているようだ。前のプロバイダも酷かったが、今回のもかなり酷い。僕は、「う んこプロバイダ」と付き合って 5年近くになる。従って、もはや「うんこプロバイダ」に対しての期待度はかなり薄い。IIJ や AT&T のようなブランド・プロバイダならともかく、「うんこプロバイダ」に妙な期待はしていない。

僕は、メールが送信したいとか、ニュースグループが見たいとか、ホームページをつくりたいとか、そういう期待はしていない。まして、楽しいコンテン ツサービスとか、ポストペットが飼えるとか、そんなものも望んでいない。Internet にデータが流れればなんでもいい。メールと Web は AT&T を使うから、「うんこプロバイダ」は回線さえ上がっていれば良いのだ。しかし、そのささやかな期待さえ、運の悪い日は叶えられない。

最近、このケーブル・プロバイダを、外資系の某企業が買収した。黒船パワーで、どうにかしてくれるだろうか。それとも、なんちゃって外資系路線で、このままだろうか。なんにしても、僕は、このプロバイダの怪しげな回線で、繋がっている。

注1:それでも、月 8,000円ぐらいは DoCoMo に支払っているので、使ってはいるようだ。
注2:ケーブル・プロバイダは、つながってしまえば 512kbps(ISDN 1チャンネルの 8倍の帯域幅)の回線なので、ちょとした会社のオフィス並みの速度が出る。24時間つなぎっぱなしで料金一律。
注3:技術的に説明すると、DHCP サーバと、DNS サーバ(プライマリ・セカンダリとも)が落ちるので、何も出来なくなってしまう。2時間ぐらいで直る、こともある。

焼きイモ屋

寒い季節に生まれた羊ページの作者は、最近、誕生日を迎えた。年齢を重ねる毎に、少しだけ思いを馳せるのは、自分がここまで積み重ねたもののこと。そして、他の人たちが、同じように積み重ねるもののこと。

人は、その短い一生の中で、自分なりの歴史と経験を積み上げ、自分のカタチをつくっている。それを変えようとすることは、その人の内面を、深く否定することに繋がりかねない。カタチは、結果にすぎない。

だから人は、そんなには変われないと、僕は思う。変わりたい、あるいは、変わって欲しいと願っても、裏切られることは多い。特に、自分が変わって欲 しいと願った人に、裏切られることは、辛い。実は、誰かが誰かを裏切るわけではない。心の中に生まれた希望が、現実の固まりの中で、砕け、失望に変わるだ けのことだ。それでも、そうして生まれた失望が、とても苦いことに変わりはない。

考えてみれば、自分自身が変わることも難しいのに、他人に変われと期待すること自体、おこがましいのかもしれない。現実の世界ではむしろ、そうした 「変われないもの同士」に、どう折り合いをつけ、どう受け入れるのかが大切なのだろう。そのステップを越えることができれば、その先で少しだけ変わること が出来るかもしれない。
「かもしれない」だけだが、それが、希望だ。


この前聞いた、焼きイモ屋のアナウンス。
「甘くて美味しい石焼きイモが 1,000円で 3本以上の安心価格、一本からでも承っております。」

最近の焼きイモ屋は一味違う。昔、焼きイモ屋の掛け声と言えば、「ほっかほか」だとか、「とにかく、ほーっかほか」だとか、そういうお決まりの文句 だった。そして、いざ買ってみると、やけに高い値段を吹っかけられたりしたものだ。その焼きイモ屋が、具体的な値段でアピールするなんて、驚きだ。不況の 時代、焼きイモ屋も変わった。

買ってみれば、値段はともかく、イモは相変わらず水っぽい。所詮は、そんなものだ。それでも、今度こそはと思って買ってみる。それも、希望、と言うのかもしれない。焼きイモ屋だって変わるのだ。

注:実際は、作者は焼きイモがあまり好きではない。

言葉は、降りてくる

ある時、気に入って読んでいるサイトの作者にメールを出した。「あなたの書いている日記には、無駄な言葉が無い。それは、書いてから削り込んでいるのですか、それとも、いきなりそういうものが書けるのですか?」

答えは、「言葉は、降りてくるんです」そういうようなものだった。

伝えるための工夫や推敲は、所詮枝葉を整えるものでしかない。幹になる部分は、その人の言葉を借りれば、まず、降りてくるのだ。僕なりの解釈で言え ば、降ってくる、といった方がしっくりくるかもしれない。唐突に、一方的に、偶然みたいに、降ってくる。下手をすると、捕まえ損ねる。

降ってきた言葉をうまく捕まえて、文章としての形にする。どれだけ巧くそれができるか、というのは、センスと経験にかかっている。しかし、それがいくら巧くなったとしても、何の意味もない。「巧いね、とても」それだけ。

僕自身には、そういう降ってきたものを、巧く文章のカタチにする才能はあると思う。いや、それは才能と言うよりも、技術・職人芸に近い。時々、ふと不安になるのは、僕にはいい言葉が降っているのだろうか、ということ。文章を書いていると、そういうことが、妙に気になる。

注:冒頭部分のメールの送信者の方からは、事前に本稿の掲載許可をいただいています。