やはり年末は筋子か

歳末で、ごみごみしたところには行きたくない、買い物なんてもってのほかだ。っていうか、この時期に何を買えと。筋子か。(筋子は好きだが)

war photographer を観に行った時に、結構気に入った東京都写真美術館に行こうと思って、念のため web で調べると、昨日から新年まで休館。そのほか調べてみると、美術館の類は、軒並み休館。帰省で静かな街で、ゆっくりするにはそういうところが開いていたら素敵だと思うのだが、まあ、係の人にも休む権利があるか。


そうこうしていると、ネットで頼んでおいた、Glenn Gould の CD が届いた。 images というコンピレーション。2枚組なのだが、1枚目が Bach, 2枚目が not Bach。面白い。その道の研究者が撰んだだけあって、ただのメジャー演奏の寄せ集めではなくて、ちゃんとカラーがある。この間の今日の一言で、複製芸術について書いたけれど、そういえば Gould は複製芸術の可能性を信じたアーティストだった。デジタル録音をいち早く採り入れただけでなく、そのキャリア半ばでライブ活動をやめてしまったぐらいだ。どんな路線でも、やっぱりエッジにいかないとダメだね。

Gould をかけっぱなしにして、少しメールを書いたり、山を成しているダイレクトメールをシュレッダーに放り込んだりした。「お土産はなにがいいでしょう?」帰省 している後輩からの電話をのぞけば、ほんとなんにもない年末の一日。来年はどんなことをしようか、まじめに少し考えてみたり。日差しはすぐに弱くなって、 冷ややかな闇が落ちてきた。

やはり明日は筋子を買いに行くか。しかもアメ横に。(いや、、それは、、)

一週間焼肉ダイエット

Photo: 上カルビ、あるいは上脂 2003. Tokyo, Japan, Contax Tvs Digital, Carl Zeiss Vario Sonnar T* F2.8-4.8/35mm-105.

Photo: "上カルビ、あるいは上脂" 2003. Tokyo, Japan, Contax Tvs Digital, Carl Zeiss Vario Sonnar T* F2.8-4.8/35mm-105.

一週間焼肉というのをやってみた。サイドオーダーは許されるが、バランス的には、肉をおかずに、飯を食べるような感じだ。

レバー嫌いにレバーを食べさせてみたり、焼き肉というより生肉という勢いで食べてみたり、いろいろバリエーションを楽しむ。ただし、寝ても覚めてもメニューは焼き肉。


初日は嬉しい。二日目はちょっとうんざりで、三日目は凄くイヤ。四日目以降は、諦めの境地に達する。
「また肉か、、しょうがねぇなぁ、、」みたいな。あるいは、「よし、そろそろ夜肉いくかぁ、、」みたいな。

さぞかし健康に悪いかとおもいきや、べつに、体調を崩したりはしない。しかも、意外なことに、肉だけ食べているぶんには太らない。よく、何か単一も のをひたすら食べるダイエット方法があるが(すりおろしリンゴダイエット、某フルーツジュール使用 24時間ダイエット等々)、肉ダイエットでも痩せることはできる。シナボン・ダイエットだって多分、不可能ではないはずだ。


日ごろ焼き肉については、割と鍛えている我々も、一週間の最後の方はちょっと肉をなすり合う感じ。

なにこの霜降りの肉。カルビなの?うげー、霜降りか。お前喰えよ。まて、俺の皿に入れるな。、、じゃあ半分にするか。良く焼こうよ、脂落ちるし。


注1:合わせてどんぶり飯とかを大食いしたらどうなるかは保証の限りではない。
注2:いや、たぶんこの肉は普通に食ったら旨いのだと思うが。(実はこの肉は、見た目より、かなり安い、、)

音楽のコピーと、複製芸術ビジネスの終焉

Photo: なんか憧れる、こういう機械 2003. Tokyo, Japan, Sony Cyber-shot U10, 5mm(33mm)/F2.8

Photo: "なんか憧れる、こういう機械" 2003. Tokyo, Japan, Sony Cyber-shot U10, 5mm(33mm)/F2.8

あるレーベルの人から「音楽は、宗教なんです。CD を買うお金はアーティストへのお布施なんです」という話を、聞いた。音楽産業を表すのに、こんなにぴったりした言い方はない。でも、最近の音楽は、ただ消 費されていくファーストフードの月替わりメニューのようにも思える。

いずれにしろ、音楽は芸術である以上に、「産業」なのだ。


もともと、オリジナルのパフォーマンスを聴くしかなかった音楽という芸術は、ラジオ、レコード等の複製・流通可能なメディアの出現によって、大きな 変貌を遂げた。かつて自分自身がパフォーマンスを行うことでしか対価を得られなかったアーティストは、たった一度の演奏を無限に複製することで、対数的な 富とプレゼンスを自身に集めることができるようになった。複製芸術の誕生だ。それによって、音楽は産業になった。でも、その「産業」が永遠に持続可能なも のだとは、誰も保証していない。事実、その輪郭はこの数年でだいぶ崩れたような気がする。

今世紀の音楽産業は、複製技術の進歩と広告プロモーションの洗練によって発展した。そして今、100% 同じコピーが作成可能なデジタル複製技術と、コミュニケーション・メディアの多様化に伴う嗜好・興味の細分化によって、そのビジネスの前提が崩れようとし ている。メディア技術の進化に依存して巨大な富を産んだ複製芸術は、皮肉なことに、その技術上の頂点に達した瞬間に、金の卵を産み続けることができなく なった。

じゃあ、音楽は無くなるのか。そんなことはない。既存の音楽産業の形態が崩れたら、日常から音楽がなくなってしまうかのような事を言う人もいるが、 そんなのはただの脅し。ビジネスがあって音楽が生まれたのではなくて、音楽がたまたまビジネスとして今のような形態の音楽産業を産んだだけの話。あるもの が崩れたら、あるものが生まれる。


例えば、最近割と面白くてインターネットラジオで合わせることが多い magnitune.com。 ここは、曲の売値の半分がアーティストに行くという、クリアな利益モデルをとっている。ネットを使って中間コストを省き、かつ、アーティストへの利益配分 率を上げることで、アーティストが一発ヒットをねらわなくても、食べられるような仕組みをつくっている。これから大切なのは、常識的な利益率と、選択肢の 提供ではないかと僕は考えている。もちろん、新しい試みは、そう簡単に成功しないだろう。でも、歯車が逆転することもないはずだ。


注:magnitune のトップページには We are not evil. と書いてある。面白い。