その日、僕はとあるライブステージの袖で、スタッフの 1人として立っていた。昨日は、夜中まで設営とリハーサルにつきあっていたので、少し眠い。
ライブは、本番のステージが始まるまでに、裏方の仕事の多くが終わっている。前日の設営に始まり、莫大な量の機材とそのオペレーションはテストさ れ、リハーサルされ、再調整され、再テストされる。あとは本番で、段取りの通りに、間違いなく、コトを進めるだけ。100人近いスタッフの仕事が、観衆の 前でアーティストにきちんとパフォーマンスをさせる、ただそのためだけに注がれている。
実際のステージというのは、僕にとって初めての経験だった。いつかこんな日が来るかな?とは思っていたけれど、こんなに直ぐに実現するとは思わな かった。現場では最初、空気に圧倒される。まず、どこに立っていれば良いのか、あるいは座っていればよいのか、分からない。業界が違いすぎて、空気が全然 読めない。新人の頃みたいに、所在なく立ちつくすしかない。違う世界の、プロの現場。謙虚さと、臆病さの一線はなかなか見えない。そして、僕たちはお客さ んではなく、ある種の領域のプロとして呼ばれている。
自分達の受けもつ部分に、少しトラブルがあった。お願いして用意してもらった機器がうまく動いていない。しかし、トラブルが僕たちを落ち着かせ、いつもの自分達の仕事をすることを思い出させる。
徐々に埋まっていく客席を映すモニターを眺めながら、本番をじりじりと待つ。本当にいろんな世界があるんだなと思う。現場にどんな服を着てくればい いのか、それからして分からなかった。黒っぽい格好かな?と思ったら、だいたい合っていた。周りのブースの人たちは、じっと始まりを待っている。時間の経 つのが、遅い。
袖から見ると、ステージの上には、ものすごい光量のライトが降り注いでいる。暗闇から見ていると、ステージに踏み出すアーティストは、文字通り、光の中に歩いていく。
みんな、これを目指す。そういう気持ちが、少し分かるような気がした。当たり前の事だが、コンサートではアーティストが全てだ。アーティストのため に、100人からのスタッフが働く。そして、その何倍ものファンがたった一人の人間を見に来る。そんなことは、普通の世界では考えられない。
コンサートの始まりを告げる MC が流れ、僕たちの直ぐ横に立っていたアーティストが、ステージの光の中に手を振りながら出ていく。モニターに目を走らせて処理が正常に動いているのを確認し、舞台に視線を戻すとドッと観客が立ち上がるのがよく見えた。
「立ちましたねぇ!」
誰かが、低く叫んだ。
注:芸人でも歌手でも、スターでも大将でもなく、「アーティスト」と呼ぶらしい。