なんとかやっていける

親しい間での飲み会も深夜になってくると、思いもしなかったような話しが飛びだしてくる。

正直な話しを聞くことができるのは、無条件にうれしいものだけれど、「人間の本当の姿」みたいなものまで見ることになって、少しショックだったりすることもある。この人が、そんな事をするなんて、、と。


人間というのは、実にいろんなことをする。なかでも、聞いていて心に痛いのは、不誠実なこと。不誠実というのはいろいろあって、他人に対して不誠実 だったり、自分に対して不誠実だったり。どちらにしても、不誠実であることに気がついてしまった瞬間から、その人にとっての苦しい時間が始まる。

もちろん、すべてに対して誠実にしよう、というのは無理な話しだ。何かを得るためには、何かを捨てなければならない。結局、両手に持つことのできる 宝物の数は限られている。それだって、いつ指の隙間からこぼれ落ちてしまうかわからないのだから、何を犠牲にしたって守ろうとする。結局、どう頑張ったっ て、全てに誠実ではいられない。

聞いていて心が痛いのは、きっと話している人自身が傷ついているからだ。そういう事を話しあって何になるんだ、という人もいるかもしれない。けれども、別にどうにかしたくて、話しているわけではない。ただ、そういう事を話すことができる相手が、友達だと、僕は思っている。


さて、僕は、基本的に「人はいいものである」という考え方を大切にしたいし、そう思っている。もちろん、すべての人がそうではないにしても、たいていの人、特に自分の友達に対しては、そう思う。(逆に、そう思えない人は、僕の友達の範疇からは外れるわけだ)

だから、当然のことではあるけれど、そういう場所で、友達がいくら「よくない」「不誠実なこと」を話しても、僕はその友達に対する見方を変えたりはしない。変えたりしない、というのが綺麗すぎるならば、変えたくない、と思っている。


僕が思う「人はいいものである」というのは、「人は悪いことをしない」というのとは、全然違う。むしろ、人は悪いことをきっとする。それどころか、 あまり長くもない僕の人生での経験から言っても、人はろくなことをしない。生きている時間の3分の1は寝ているとしたら、その他の3分の1では、きっとろ くでもないことをしている。

じゃあ、人間ってとんでもないよね、というと、それはたぶん違う。

僕が友達、あるいは自分(ある意味では、他人を赦すよりも、自分を赦す方が難しいと思うが)を赦せるのは、それによって、その人が、あるいは自分が傷つくからだ。

そのことで、心を痛めたり、苦しんだりするはずだ。あるいは、その時はなんとも思わないかもしれないが、ずっと後になってから、自分がしたことの意味が分かるようになってから、心が震えるはずだ。


そういうことがあるから、僕は「人はいいものである」と思える。なんとかやっていける。

バカか?と思われるかもしれないが、それが僕の最も基本的な考え方だ。

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