そして、10年

そして、さらに10年が経った。今、webを見返して10年前にも僕は15分遅刻していた事に驚いたが、今度は40分遅刻していた。あの時と違って、タクシーに乗って店まで行ったのは、年月の流れだ。


別に10年ぶりというわけじゃない、それなりの頻度で会っていたりする。でも10年前と、みんながやっていることは変わっている。一人は、ゲーム業界で仕事をしているし、もう一人はAIを応用して医療業界でベンチャーに加わっている。と書けば、今風の意識の高まりを感じるけれど、違うそうじゃ無い。それぞれの紆余曲折を見ているから、そんな単純な話ではなかなか片付けられない。

さっぱり解決されないインシデントのチケットコメント欄に「I’m serious.」と書いてサポートを脅迫したベンチャー氏の話は、いつだってならず者路線で安定している。


 
「大人は居ないって言ったけどさ」(僕はそんな事を多分、直接には言っておらず、このサイトでそう書いたのだが)
ゲーム業界氏が言う、
「大人は居るよ、やっぱり」
そうかな。
「嫁に、こないだプレゼントをしたんだけど」
ほう、そんな洒落た事を
「上の子が、親父はこんな洒落たものを店舗で買えるわけが無いから、きっとAmazonだって言われて、実際その通りだった」
それは大人だなぁ、女の人は大人になるのかもしれないなぁ。

結局、そんなあやふやな話をして、20年目の会合は終わった。

点滴

Photo: “IV for survive.”
Photo: “IV for survive.” 2019. Tokyo, Japan, Apple iPhone XS max.

他にやることも無く、ただ点滴が落ちるのを眺めていた。

起きている時は、点滴を取り替える度に名前と生年月日を言わされる。なんだか、収容所の点呼のような気分。病室は携帯も使えるので、ラベルの薬品名を検索して、重症者にのみ適用する上限量が投与されている事を知った。

今の抗生剤の組み合わせが効けば、状況は良くなる。効かなければ、悪いシナリオを考えなくてはいけない。言ってみれば、現代医学の根幹を成している抗生物質が、自分の命の行方を握っていた。なんともシンプルで分かりやすい。


死ぬ準備なんてできてないし、意味もよく分からない。しかし、そんな事はお構いなしに、死というのは自分の所にやってくるようだ。人の命というのは、案外、実に簡単に終わりになるんだな、と思うと、なんとも可笑しい気分になる。とは言っても、最初からあまり悪い方向には考えていなかった。自分の体の中の力は、まだ残っているという感覚が、揺るがなかったからだ。

「触診の時の痛みの感覚を、自分でよく覚えておいてください。良くなっているか、悪くなっているか。それが、とても大事な指標になるので」

いくらセンサーを付けても、CTで画像診断をしても、やはり自分の感覚というのは大事な事のようだ。


コーラ飲みたい、ガリガリ君が食いたい。やや回復して、最初に頭の中を占めたのはその2つだった。水が飲めるようになったときに、医者にコーラが飲めるかどうか訊いたが、即却下された。コーラを飲んだのは、退院して2日目だ。

僕は、正直誰かを見舞いに行ったことなど、ほとんど無いのだが、いろんな人が見舞いにきてくれた。意外に、嬉しいものだ。抗生剤が効くかどうか、まだ先が見えていない時点で見舞いに来たグループは、意外とシリアスな病棟の空気に動揺し、ドンキの看護婦コスプレセット(男女兼用ハイグレード版)をベッドの下に放置して帰ってしまった。

おかげで、僕は看護師にそれを見つけられる羽目になった。

死ぬかと思った

正確に言えば、その時僕は自分が、そんなに危ないところに居るという自覚は無かった。今になって、基準値の数百倍の炎症マーカーの数値を見て(今の病院は、検査結果の全数値を後でプリントアウトして渡してくれる)、ああ、そういう事だったのか、と理解した。


2日寝込んで、全く調子が良くならなくて、近所の病院で診察を受けて直ぐに、「うちでは無理です」と医者は苦笑いとも、緊張ともとれる表情を浮かべながら、救急外来の当番リストを調べはじめた。その病院の救急外来に着いたとき、意識ははっきりしていたが、ストレッチャーに問答無用に寝かされ、心拍センサーを付けられ、服を着替えさせられた。意外な、気分しかしなかった。救急救命センターロゴが入った濃いブルーのスクラブを着た、ボブヘアーのスタッフがIDカードを僕の目の前 20cm に突き出しながら、「医師のXXです」と意識を確かめるように言ってきた時、つまりこれはER的な所に運び込まれた、そういう立場なんだな、と初めて認識したのだった。

CT検査から病室に運ばれる時、すれ違った医師は「患者コードブルーで来てるんで、終わったらそっち回ってくれる?」と検査技師に話しかけていた。そういうやり取りの、現場なんだなぁ、と流れていく天井を見ながら考えた。コードブルーって何だっけ?ヘリコプター?


あとは、点滴と天井を見ている日々が続いた。

点滴の中でも輸液は不思議で、このおかげで喉も渇かないし、腹も減らない。何も食べず何も飲まず、命は続く。それでも、実際には人は食べなければ、結局は死んでしまう。ある日、「見通しはまだ分かりませんが、食事を出すことにします」と医者が宣言するように言った。救急救命の時から面倒を見てくれているボブヘアーの彼女は、治療方針同意書を見ると肩書きは研修医となっていた。立派なものだ。

最初に、いわゆる「重湯」と呼ばれる米の香りのする湯を飲んだとき、俺は治る、という漠然とした気分が確信になった。人間は、食べて生きる。結局、生きることは食べる事だ。周りには、重い病気で入院している人が多かったのだけれど、見ていると、食える人は、というかなんとしても、一口でも多く食べる、という姿勢の人は実際に回復していく。そうで無い人は、病状が進捗しないように見えた。

重湯はお粥になり、パンが出て、焼き魚が出てきて、意外な事に漬物まで付いてきた。「まあ、味はあれでしょうけど」と言うドクターに、「いや、結構うまいですよ」と言うと、怪訝そうな顔をしていた。まともなものが食べられるようになってからの回復は早く、そこから2日で、退院した。


今は、まだ飲みに行きたいとか、そんな気分ではまるで無いのだけれど、普通に食事をして、だいたい普通に生活をしている。道路工事とかじゃなければ、仕事も大丈夫ですよ、とドクターは言っている。今は、ローカーブとか、そんな事は気にしないで、沢山飯を食う。それが、生きものの本質なんだ、と今さら思い知ったのだ。