オリンピック

オリンピックに興味もないし、見るつもりもない。

でも、開会式に向けての、言論統制・独立運動への弾圧を見ていると、これは 1936年のベルリンオリンピックの再来なのかなとも思う。一党独裁国家が、その威信をかけて開くオリンピック。その影では、民族浄化が行われており、そ れを黙認し、あまつさえ大手を振って開会式に参加する周辺国。同じ事を、人類は繰り返しているのか。


アジアの途上国が急速に発展する様を、あるいは東京オリンピックと重ねる人も居るかもしれないが、それとは、どこか、そして致命的に異なっていると、僕は思うのだ。どうして、屈託もなくあのイベントを楽しんで観られるのか、僕にはちょっと共感できない。

もしかして、来るべき未来、子供の世代にこう聞かれるのかもしれない。「その時、あなたは何をしていたのですか?」と。

腐った根

夜回り先生は死にかけているらしい。だから、テレビにも出ることにしたらしい。自分は死のうとしている、生きたいのに死のうとしていて、そこに「死にたい」という電話を受けると、こんな僕でも腹が立つことがある、そう言っていた。

思い出は、忘れるか、闘うしかないと言っていた。若ければ、植物を植え替えるようにして、そういうことも出来るんだと思う。でも、悪夢のような思い出も、もう他に換えはないので、それを捨てるのは植物の根っこを取るのと同じ事。幹が大きく育ってから、根をとってしまったら、木は倒れてしまう。だから大木を、挿し木にはできない。そんな気もする。


そんな事を言うと、ある種の状況では、結局救いが無い、希望が無いと思っているように受け取られるかもしれないが、実際そう思っているのだ。