ボスニアで起こっていること

今回の「今日の一言」は、あまり面白くない。日常が、面白くないモノにあふれていて、これ以上はウンザリだと言う人は、是非読み飛ばしていただきたい。


今、ボスニアで起こっていることは、おおざっぱに言って、ある民族の土地を奪い、殺し、暴行し、追い出す、というようなことだ。

こういう事は、歴史上、特に珍しいことではない。最も有名な、ホロコースト以前にもあったし、それ以降も何度も繰り返されてきた。そして、こういう歴史の汚点は、毎回あまり顧みられることもなく、ずっと犠牲者を生んできた。


ホロコースト。

ユダヤ人弾圧の事実は、当時、かなり早い時期から周辺国に伝わっていた。しかし、それを知る人々は、そのことを追求しようとはしなかった。

例えば、国際赤十字。赤十字は、ユダヤ人強制収容所の事実を知りながら、それに目をつぶった。彼らは、収容所に査察団さえ派遣し、その実態に気づきながら、組織的に黙殺した。(その恥ずべき事実をようやく認めたのは、戦後になってからだ)


世界は、そうやって戦争よりも目先の平和を選び、結果としてユダヤ人は大量に死んだ。

ユダヤ人は、ユダヤ人であるがために、人類史上、最悪の手段を尽くして殺された。その事実は、歴史の記憶として、今も残っている。しかし、もちろん、その後も同じような悲劇は続いた。

例えば、ユダヤ人国家イスラエルが、ヨルダン川西岸地区で、自分たちが過去にやられたのと同じことを、パレスチナ人に行ったのは皮肉なことだ。パレスチナ人は、土地を奪われ、金網とバリケードの中に閉じこめられた。ある者は逮捕・投獄され、殺された。


ユーゴスラビアはここ数年にわたって、ずっと戦禍の中にあった。

オリンピックが開かれた首都、サラエボは、一転して死の街になった。日本ではぜんぜん報道されなかったが、あの地域の戦争と殺人は、ここ数年間にわ たって続いてきた(ユーゴスラビアの紛争が日本人の興味を惹かない最大の理由は、現地の地名や人名が覚えにくいことと無関係ではあるまい)。

その長い戦争が、つい数年前にようやく停戦をむかえ、国境線が引き直された。しかし、それで決着はしなかった。また、虐殺が始まったのである。

それを見過ごすことは、恐らく、可能だっただろう。しかし、今回、NATOが選んだのは戦争だ。


僕は、今回の NATO の空爆を支持する。支持する、ということは、誤爆で非戦闘員に被害者がでても、支持するということだ。爆撃で死者が出る事と、民族浄化で死者が出ることの意味は違う、僕はそう考える。

反対することは簡単だ。あるいは、いろいろ理由を付けて判断を保留することもできるだろう。僕の「支持」は、NATO の爆弾でバラバラに吹き飛ばされた人には、とうてい受け入れられるモノではない。僕は、殺人者の支持者である。しかし、それでも仕方がない。


最近思うのは、物事を傍観し、責任を持たず、批判するだけということは、いかに簡単か、ということだ。そういう態度をとって、なおかつ、それを誇らしげにしている人々を僕は軽蔑する。日本の知識人や、学者には、そんな奴が多い。

とりあえず戦争っぽいものには反対しておけば間違いない、そんな計算が見え隠れしている。

ホームページ更新断念

「5月の雪」の管理者から、「ホームページ更新断念」のメールが来た。

僕のページの読者で、同時に彼のページも見ている人はきっと多いはずなので、非常に残念だ。理由はネタ切れと、Macを起動するのが面倒になったため、だそうだ。


ホームページを書き続けるというのは、それはそれは、かったるい作業である。

まして、エッセイなんてモノをメインにしていようものなら、更新の度にすり減る思いがする。「5月の雪」管理者がネタがない、というのは非常によく分かる。

滅多に反応のメールなんて来ないし(インターネットでWebを見ている人のうちで、ホームページの作者に感想を送ったことのある人は、何人いるだろうか?)、その割に、時間ばかりかかって神経も使う。

誰のために、何のために書くのか、分からないままに書き続ける。そして、少しずつ増えていくカウンターだけが、自分が何かをしているんだという実感を与えてくれる。

(だいたい、僕の文章は自己完結していることが多いので、もとから感想なんて書きにくいとは思う、、)


僕も、何度かこのページの更新をやめようと思った。しかし、やめてみると(ページのデータ自体を削除したこともある)、自分がこの世界に残す、何かカタチになるモノは、実はホームページぐらいしか無いことに気が付いたりした。

その他の理由もあって、僕にとって何かを書きそれを発表すると言うことは、結局、とても大切なことだ。


僕は、「5月の雪」の管理者に、なにがなんでも更新を続けろ、とは言わない。

それは、自分で決めることだからだ。しかし、もしリタイアされてしまうと、それはそれで寂しいことだ。一人で走るのは、面白くない。

棄権

選挙は棄権した。

かったるかったからだ。

選挙は、民主主義の基本であり、、とかそういう事を言われると、いちいちもっともな話で反論はできない。

しかし、わざわざ投票所まで行くのはとてつもなくかったるい。あれでは、棄権が多いのも無理はない。棄権しても仕方ない。

いや、もっと言えば、僕が投票に行かなかったのは、僕が悪いのではなくて、面倒な投票のシステムが悪いのだ。(もちろん、暴論なのは分かっているが、それでも思ったことは書く)


まず、投票所まで行かせるのが信じられない。電話でもいいし、インターネットだっていいだろう。郵送でもいい。自分の意志を表明する手段は、なにも一種類でなければいけないということはあるまい。銀行口座だって、電話で取り引きできる時代だ。

だいたい、現在の投票形態では、替え玉投票なんて簡単にできてしまう。身分証明の提示さえ求められない、あんないい加減極まりない投票で良いのなら、別にメールで投票したって悪くないと思う。


でも、なんでそうなる気配もないのだろう。

日本では、お役所というのは、まだまだ「御上」だからかもしれない。彼らには、市民に奉仕する義務があるわけで、我々はお客だ。お客の意見は、少々の無茶でも聞くのがサービス業というものだろう。

市民はわがままで良い。そのむちゃくちゃを、お役人は聞くべきだ。それは、「市民の良識」とか「基本的人権」とかそういうカッコイイ(そして、イライラさせられる)事ではない。
「金払ってるんだから、ちゃんとやれボケ」という、極めて単純な話だ。