その日、タクシーの後部座席に乗った僕は、黒のスーツと、紺地にブルーの柄が入った地味なネクタイ、薄いピンストライプのシャツという格好だった。まあ、固いと言えば固い、怖いと言えば怖い。
僕が向かうべき場所には、これと言ってめぼしいランドマークが無い。ふと思いついて、
「検察庁」
と言ってみた。そのあたりで、唯一目立つ建物だからだ。
だいたい、大阪のタクシーの無用なフレンドリーさには毎回辟易する。さらに関東からの人間と分かると、鬱陶しい思いをすることも多い。だが、この日は対応が違った。なんというか、腫れ物に触るような感じ。大阪のタクシーにご機嫌を取られる、というのはあまり無い体験だ。
「いやぁ、それにしてもあのビルの中は全部検察庁さんなんですかねぇ」
と聞いてくる運転手に、
「さぁ、どうでしょうね」
ともっともらしく答えるが、もちろん事実がどうなのか僕の知ったことではない。さすがに検察庁の車寄せに着けられては困るので、少し手前の横断歩道で降りる。運転手は最後までへぇへぇした感じ。
そりゃ、こんな態度を取られ続ければ、人間勘違いもするよな、という思いと共に、あの運転手の態度が果たして権力には屈さないと言われる大阪の人間の強かな態度の裏返しだったのか、単に機嫌を取っていただけなのか、考えれば考えるほど分からなく思えたのだった。