セブンの新製品「冷やし豚中華」のレビュー。
友達が買ったという、新製品のレビューを見ていると、これは味の個人の感想なので云々、という注意書きから始まっていた。公的な味の感想、などというものがあるのか。食ったモノの感想が人の味覚に依存することを、いちいち書かないといけない時代なのか。YouTubeのレビュー動画も、しつこいぐらいそんな注釈が入る。そこに文句を付けるヤツが居るという事なのか。
ーーー無論、そういうヤツが居るのだ。
表現に対するプレッシャーは強くなっていると思う。コンテンツを公開する前に、一旦、皆で集まってリスクを洗い出す。ここはちょっと、受け取り方によってはマズイよね?そんな「予感」みたいなものを、もし2人が感じたらそれはもう、確実にマズイ。そこは修正されるか消される。事実関係とか、そういうチェックとはまた違う、何かに対するコレクトネス、そういうプレッシャー。
作り手の立場になるととても言えないことを、消費する側は簡単に言えてしまう。作り手がそれを把握して、飲み込む義務は無いのだけれど、どうしても、そうすべきと言うプレッシャーとか、社会的合意が有る。一方で、作り手を保護する仕組み、表現を守る仕組みに対する擁護は、心許ない。
台湾の納税サイトの改善にあたっての取り組みを、唐鳳(オードリー・タン)が紹介していた。意見を言うものと、作る者の間に、調停者を置いて、意見をマイルドにして伝える仕組みが導入されたという。確かに、日本のe-taxの改善提案サイトのようなものを作ったら、それは罵詈雑言とカオスになるのは目に見えている。開発運用の担当者が(多分、あのサイトがああなっているのは、開発よりももっと前の所の問題だと確信するが)、それをまともに直視できるとはとても思えない。何らかの調停者とか、モデレータが必須だろう。
あるいは、同じく台湾の公共プロジェクトのコミュニティーには、リプライを禁止して、意見しか言えないようにする仕組というのもあるそうだ。反対意見はもちろん提示出来るが、それは反論のリプライ、ではなくて、あくまで自分の立場表明になる。そういう、コミュニケーションの方法論そのものを、プラットフォームに合わせて新しくする時が来ている気がする。