世田谷区某所。謎の奉書焼き(?というか、ホイル焼きというか)をあけると、松茸が出てきた。
秋だなぁ?。
でもさぁ、松茸ってうまいのか?確かに何か他のキノコに比べると、「松茸の匂い」っていうのは明確に分かる気がするし、そのぬぼっとした風体は、日本人がキノコの王様として崇めたくなりそうな気もするが、、。
でもなぁ、やっぱりウマイのかな?
(ウマイとは思うが、そんな高い金を払うモノではないと思う。)
月: 2004年9月
「我が心は IC にあらず」
「今のところは、もっぱら深夜の受話器や同好会のサークルノートにたたきつけられている、青春の情熱 や個人的な愚痴や妄想や表現欲求が、大量に出版され、あるいは電話回線を通じて不特定多数の読者に向かってバラまかれるのだとしたら、これは相当に鬱陶し いことになるに違いない。*1」
と、小田嶋隆が書いてから約 15年。予想通り、事態は相当に鬱陶しい事になっている。電話回線どころか 100Mbps の光回線に乗って、億千の繰り言が目前のディスプレイまでやってくる。
僕はまた、小田嶋隆の「我が心は IC にあらず」を読んでいた。
何度読んでも、面白い。コンピュータという産業自体が、まだまだヤクザだった黎明の時代。そんな時代に、20代フリーランスのテクニカルライターが 紡いだ文章は、15年の時を経てなお、面白く、そして振り返ってみれば、たくさん正しかった。小田嶋隆の文章は、かつての本の時代にあって、今の web のような独特の「近さ」みたいなものを持っていたのであって、間違いなく新しかったのだ。
ついぞ考えた事がなかったのだが、今、インターネットには、小田嶋隆のホームページというものが存在する。15年前のこの本の上に固定されていた小 田嶋隆というテクニカルライターは、現実の世界で、それだけの歳をとって、やはり存在していた。google で簡単に探しだしたそのページを訪れるということは、僕にとってあまりにも奇妙な体験だった。
小田嶋隆はあまり変わっていなかった。偉くなってもいなかったし、書いていることは相変わらずだった。それは、喜ばしいことではあったが、僕をなん ともやるせない気分にもした。向こう見ずな 20代の小田嶋隆が、いきなり、40代子持ちの小田嶋隆になり、そしてあいかわらず文章を書いていた。
彼が書いたあまりにも正しい約 15年前の文章。そして、きっちりその分だけ歳をとって突然目前に現れた小田嶋隆。ノスタルジーではない。彼自身が予見したテクノロジーが生み出した、軽い、衝撃。
*1 我が心は IC にあらず、小田嶋隆、1988年, ビー エヌ エヌ。(絶版)
太陽の塔、の裏
「太陽の塔には3つの顔をつけた」
テレビのインタビューで岡本太郎がそう言っていた。おかしい、太陽の塔ぐらいは知っているのだが、あれって真ん中とてっぺんに1つずつ顔(のようなもの)が付いてるんじゃなかったか。
真実を確かめるチャンスは思ったよりはやく巡ってきて、数日後に訪れた岡本太郎記念館の2階に、太陽の塔の模型が鎮座していた。
うーん。どう見ても2つだ。ゲイジュツという視点から見ると、3つなのか??ワカラン。
答えは簡単だった。何気なく後ろ姿をみると、、。
そういえば、太陽の塔の後ろ姿なんて考えたこともなかった。やられた感じ。しかも、これって34年も前の作品だ。
「調和」をテーマにした万博で、太郎のデザインを採用することには大きな反発があったそうだ。でも、調和というのは、真剣にぶつかった後にしか生まれない。だから、おもいっきり変わったのを作った。34年たっても、相変わらず変わってるんだからすごい。