新宿一丁目。隣に座る見知らぬ男が噛んでいるガムの、甘ったるい人工的な臭いが、とても不愉快だ。天井は低く、空気の流れは悪い。
「非常口が無いじゃないか」と友人はいささか怒っている。ここで火事が起こったら、逃げられないだろうな、と思う。細い階段だけが唯一の出入り口の地下一階。芝居小屋、というのがぴったりな、80名も入れば一杯の劇場だ。
芝居というものを、芝居小屋という空間で、初めて見た。それは、ちょっと予想外の体験だった。なんというか、極めて個人的な人生の断面を、のぞき見しているような、そんな感覚。
僕たちが最初に、芝居というものに触れるのはテレビの中だ。だから、テレビ以前とテレビ以降では、その印象というか衝撃というか、そういうものはかなり異なるだろう。テレビも映画もない時代に、芝居に触れた人の驚きと楽しさは、相当なものだっただろう。テレビで、中途半端な芝居体験を積み重ねてきた僕にとってさえ、けっこう衝撃的な体験ではあったのだ。
ライブビデオとライブが、全く違う体験であるように、芝居は体験としては、テレビよりも遙かに豊かである。例え、舞台がほんの数メートル四方の狭い、装飾も殆ど無い簡素なものだったとしても。その場限りという再演性の無さ、複製芸術にはない共有感。
しかしこれは、まったくスケールしないし、商売としては楽なものでは無い。結局あの日、観客とスタッフと、どちらが多かったのだ?パトロン無き時代の芸術とは、どうやって成り立つのか。そういうことを、また考えた。
いまのところ
臨場感の高い低い と 商業的なスケール
(知覚による一次情報) と (テクノロジーでつくった二次情報、映画とか3Dとか)
というところはトレードオフの関係にあるという感じなのですかね?中々興味深い指摘です。
体験の高い低いは、どのようなメジャーで評価されるか?という疑問があるかもしれません。
一次情報による、一緒の場所を共有している感、というのは、二次情報の質の向上(1080pだから良いとかそういうのではない)では追いつけないでしょう。
ただ、違う軸で共有感とか高い体験というのは得られるような気がしていて。
例えばたいして画質の良くないustreamで見る坂本龍一ライブが、妙に共有感があったり、
同じテレビ番組を見ながら携帯とかでチャットするとそれがインタラクティブな体験になったり。
体験のメジャーというのは、評価軸が沢山あるような気がします。