江藤淳が死んだ。自ら命を絶った。江藤淳の評論を好んで読んだことはないが、名前に聞き覚えはあった。
でも、作家や評論家が自殺しても、誰も不思議に思わない。そこには、まあ、そういうものかな、と思わせるような部分がある。
文章を書く人間には、いろんなタイプがいる。中には、ギリギリのところで何かを削るようにして文章を書く人もいる。もともと、文章を書くというのは、ものすごく厳しい、というより、ほとんど悲惨としか言いようのない作業である。
僕には、文章を書くことで生計をたてる、作家や評論家というものが、果たして職業と言えるのかどうかさえ疑問だ。ものを書く人は、結果として職業にはなっているにしても、やはりもっと違う部分で書かざるおえないのではないか、という気がしている。
書く才能を持った人、というのは、たぶん普通の人とは違った「もの」を見ている。(「日(々)のこと」で五月の雪の作者も書いているが)そして、それをある種の使命感や、衝動によって紙の上に(最近ではキーボード)表現していると思う。
しかし、その才能が見せる「もの」は、時に自分自身を、致命的な場所に追いつめる。「もの」が見える力があるからといって、それに耐えられる力があるわけではない。文章を書く人間は、自分を傷つける程の力をもった、「もの」を見つめながら原稿用紙のマスを埋め、キーボードのキーを叩くのだ。それは、 きっととても残酷で、孤独な闘いだ。
そういえば、高校の時に僕に目をかけてくれた国語の教師が、「君には是非、ヘミングウェイを読んでもらいたい」と言っていたことを、ふと思い出した。あとから考えてみれば、その作家は確か猟銃で自ら命を絶ったのだが。