世界がフィクションだったら、というよりはフィクション。

Photo: “Gate.”

Photo: “Gate.” 1995. vatican city, CONTAX T2 Carl Zeiss T* Sonnar 2.8/38, Agfa

2018年にホモデウスが一気に流行って、読んだ人も沢山居たと思う。日本未翻訳の時に英語版で(元はヘブライ語で書かれている)半分ぐらい読んでほったらかして、後で日本語版で読み通した。正直、何が書いてあったのかは、ほぼ覚えていない。著者のユヴァル・ノア・ハラリはイスラエル国籍なのに、ユダヤ教を思いっきり揶揄していたりして、度胸のある人だなと思ったぐらいだ。


COVID-19で暇なので、TEDをなるべく見るようにしていたりして、たまたまユヴァルが出たもの(What explains the rise of humans.)が目にとまって、それはとても面白かった。この動画の中での「人間はフィクションを信じる力でこの世界を築いた」(正確には、例えば”And as long as everybody believes in the same fiction, everybody obeys and follows the same rules, the same norms, the same values. “みたいな言い方)という主張が、ずっと気になっている。

そう、民族とか、宗教とか、国家とは、それは壮大なフィクションではある。そして、近年、特に21世紀に入ってから、そのフィクションは、急激に書き換えられたり、無効になったり、新しいフィクションが生まれたりしている気がする。そして、その状況の中では、フィクションをアップデート出来るヤツだけが、生き延びられるのだろう。

最近、「変化に対応できる生き物だけが生き残る」という、ダーウィンが言っていない言葉を、誤って引用をする人が沢山居て、それはきっとこの訳の分からない不合理な言葉に、皆が魅力を感じるからなのだ。言葉の是非はさておき(生物学的には意味不明)、世界に変化があることは確かで、それをどう受け取ったら良いのか皆、不安なのだ。


その混沌とした状況に叩き込まれた我々が出来ることは、エラを生やしたり、鱗を装備したりする事では無いだろう。人が生き残る術は、ユヴァルのアイディアを借りれば、フィクションをアップデートするしかない。それは変化への穏やかな適応ではない、信じるものを変える、宗旨替えだ。

そう考えると、日本人は、そういうのは得意だったんじゃないのか、とも思う。第二次世界大戦の敗戦後に、あっさり宗旨替えに成功したのは、壮大なフィクションのアップデートだった。しかし、その後のアップデートはあまり芳しくなく、一億総中流の夢も、歴史上の特異な一時代として終わりそう、あるいは終わってしまったように見える。


直近の状況を見れば、COVID-19は、色んなフィクションを過去のものにしてしまった。しかも、それに代わる新たなフィクションは、あまりにも分断されていて、「社会」と呼べる程の集合を生み出すことができない。

そんな風に考えると、どうも心楽しい気分にはならないが、しかし今の混沌を理解する助けにはなる気がする。そして、自分の外界の変化はさておき、自分自身のフィクションをアップデートする事で、もっとよい事があるんじゃないか、と考えてみたりするのだ。

(その後、「21世紀の人類のための21の思考」を”聴いて”みたが、その言説は、あまりにも枝葉を無視して歴史をつなぎ合わせている、と僕は感じた。)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です