イサム・ノグチ庭園美術館

Photo: 外から眺めたイサム・ノグチ庭園美術館 2006. Kagawa, Japan, Zeiss Ikon, Carl Zeiss Biogon T* 2.8/28(ZM), Kodak 400TX

Photo: “外から眺めたイサム・ノグチ庭園美術館” 2006. Kagawa, Japan, Zeiss Ikon, Carl Zeiss Biogon T* 2.8/28(ZM), Kodak 400TX

僕が香川に行った理由。

イサム・ノグチ庭園美術館。この美術館、事前に往復はがき(のみ)で抽選予約が必要。とても敷居が高い。イサム・ノグチは、彫刻家であり、身近な所では和紙で作られた光の彫刻「あかり」のレプリカを目にすることがあるのではないかと思う。


瀬戸内海に臨む湾と、それをとりかこむ山。美術館から見える山が、石切場になっていて、重機が岩を砕く音が響いてくる。イサム・ノグチが日本での住いとして選んだ牟礼町は、石の町だ。イサムの仕事場がそのまま美術館になっている。ツアー形式の観覧で、集合時間は決められており、小さな看板を頼りにし て、道を幾つも入ってたどり着く。観光バスが横付けするような、そういう観光地とは正反対にある場所だ。

少し早めに着いてしまって、のんびりとあたりの写真を撮ったりする。編み笠を被って、庭園の手入れをしている人を何人か見る。やがて、平日の午前中にもかかわらず、20人近い人々が、パラパラと集まってきた。


美術館は、野外展示場、屋内(土蔵)展示場、イサム・ノグチの住い、そして、庭園に分けられる。そこを、順番に回っていく。全部で 2時間ほどだろうか。そこに展示された作品の数は多く、そのわずかな時間では、とても見きることはできない。というか、受け止めきることが難しい。かといって、気軽に来られるようなロケーションでもない。もちろん、横目に石の塊を眺めてしまえば、あっという間に通り過ぎることも出来る。

僕たちのグループを案内してくれたのは、ちょっと年齢がよく分からない学芸員のような女性。小柄で、自然な痩せ方をしている。黒い髪と、知性を感じる黒い目。今でも綺麗だが、そこには年齢が現れている。可愛いのだけれど、近寄りがたい何かに心酔していて、距離感がよく分からない。そういう子が、学生時代には居たなと思う。こういう場所に、そういう人たちははまるのか、と変な感心をする。


イサムノグチの代表作、Enargy Void は、高い屋根の土蔵の中にしまわれている。たたきは少し湿っていて、ワラと、カビと、土の匂いがする。そういう純粋な日本の匂いの中に立っている、スウェーデン産の石で造られた、このコスモポリタンな芸術に、奇妙な違和感と親和感を感じる。3メートル以上の高さのある物体との距離を、僕は測りかねた。

そこに置いてあるのは、物言わぬ石の彫刻で、冷たく佇んでいるだけだ。しかし、この香川の空気の中で、眺めるその気分。とけ込んでいるというよりも、奇妙な距離感のある、気配。何なのだろう。


著作権の観点から敷地内で撮影は一切禁止なのだが、すれ違った「先生」風の初老の男はカメラを首から下げている。自分がカメラをしまっているのが、 悔しく感じる。なんというか、なんでも撮り放題なのだ。カタチがつくられているから、きっと幾らでも写真を撮ることができる。いくらでも、格好良く。でも、それは所詮自分の力ではないのだけれど。かといって、写真のどれだけが、自分の力だと言うのだろう。素人だから、彫刻の鑑賞眼は無いけれど、ファインダーを通して見てみたら、きっともっといろんなものが見えるのに。今、見きれないものを、あとで見返すことができるのに。そう思うと、悔しく感じる。


イサムが母のために造った庭園を最後に見る。崖を削り、土を盛り、湾を遠くに望むように設えた、それは巨大な彫刻だった。石と緑に囲まれた、急な丘である。その丘の麓に、石で造られた祭壇のような空間があって、切りたての瑞々しい色とりどりの花が一束、生けてある。実に、そこにだけ、色が溢れている。

僕は暫くその小さな生け花を眺めていた。石庭のように整備された彫刻の並ぶ展示場、県外から移築した作品展示用の土蔵、徹底的に改築された居室の内部。石で造られた小川が流れる、庭園。牟礼町の青空に融け込む石の柱と、Energy Void の奇妙な距離感。

そこにあるのは、執拗なまでの拘り。石の声をカタチに引き出す、流れを読む柔らかさ。しかし、融け込まないかたくなさ、僕が受け取ったのは、そういうことだったのだと気がついた。

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