「力」の偏在

シンニード・オコナーという歌手は、一時期、メディアから抹殺されていた。理由は、ローマ法王の写真を、あるテレビの生放送中に破いたから。キリス ト教本来の教義に従えば、法王の写真を破こうと自分の兄弟の写真を破こうと、意味は同じだと思うが、そこはそれ全然違うわけだ。

あるいは、そのローマ法王が、サイクロンでぼろぼろになったインドを訪れている。ロングストレッチの完全防弾仕様メルセデスから降り立つ法王。着 飾った人々が法王を迎える。柔らかい芝生の庭園、カトリック式の御香の煙、一面に撒かれた色とりどりの花びらの匂い。その塀の外。泥にまみれ、ゴミみたい になった被災者が映し出される、市中の惨状とのコントラスト。

非難する気は全くない。そういうものに対して、矛盾を感じたこともあった。が、今は感じなくなった。そこにあるのは矛盾ではなくて、世界そのものであることを知ったからだ。

そうした事件、あるいは景色が意味するのは「力」の偏在である。力の偏在という言い方自体、ある意味矛盾しているかもしれない。偏っていなければ、それは力とは言えない。そんな気もする。

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