帰ってきたTechED

震災以来、開催がなくなってしまった TechED が de:code と名前を変えて戻ってきたので、行ってみた。

TechED についてのエントリーを書いたのは、いつだっけと思えば、もう 14年も前だった。開催地はすでに横浜ではない、そしてスケジュールは2日間に短縮され、トラックの数は大幅に少ない。それでも、出てみた印象はとても良かった。


以前の TechED が、どちらかというと US のイベントの資料を、そのまま持ってきて物量勝負的な部分があったのに比べて、トラックはよく整理され、コンテンツは日本独自で、単なる製品紹介に終わるようなものはなかった。エンジニアの英語のリテラシーが上がり、あらゆる資料がダウンローダブルでストリーミング見放題のこの時代に、あえて日本で何をするのか、ということをちゃんと考えたのだと思う。

中でも特に印象的だったのは、成本正史さんのセッションだった。Microsoft Corporation の人なので、純粋に日本のコンテンツとは言えないかもしれない。だが、クラウドアプリケーションのデザインパターンを 100分で 20個紹介する、という野心的なセッションは大成功だったと思う。彼は「ぶった」プレゼンテーションをする訳ではないが、あるいはかえってそれだから、この人はすげぇ、という感じが物凄く伝わってくる。


2日間、たったの 2日間だったが、そこから受けた空気感は、それこそ 14年前のあの感じとはまた違っていた。あの時のスナップショットとくらべて、テクノロジーで世界が狭くなって、速くなって、多様になったことが、手に取るように分かった。Microsoft が iPad でデモをし、Android アプリをビルドする様を実演する。テクノロジーは選択の時代になった、そんなことが彼らの口から語られるようになったのだ。

ではそんな世界から、自分がどの領域を選び、どのテクノロジーを選択するのか。もちろん、今はそれは単一の選択であるはずはなく、どういう組み合わせでやっていきたいのか。そんな事を考える入り口に立った気がした。

追伸:そういえば、会場で最もよく見かけた端末は、Surface でもなければ、ThinkPad でもなく、MacBook Air だった。開発に使いやすいってことか。

ピカピカスーツのクソ野郎

社会人が守るべきスーツの基本10。みたいな記事を、季節柄よく目にする。仕事のできるできないの判断は見た目が全て、まあ、そういうのは分かり易い。


スーツネイティブな欧米人の、それも VP とか役職の高い、その中でも「ある種の」人間を間近で見ると、一目で凄くいいものを着てるな、というのが分かる。真っ白のただのシャツだって、シワ1つ無くフワリと着ている。

そんな彼らを、僕は内心「ピカピカスーツのクソ野郎」と呼んでいる。これは僕の偏見だが、見事なスーツで、ピッカピカの格好をしているやつは、政治屋ビジネスマンだ。彼らは自分のキャリアとポジションしか考えない。その歪んだ努力と下らない誇りとが、ピッカピカになって見えているのだと、僕は感じる。


昔、僕がまだ社会人になったばかりの頃、社食の隅の簡素なテーブルで、もぐもぐ定食を食べている社長(日本の Country Manager だ)を見て、とても尊敬したし、そういう会社で働くことを嬉しく思った。スーツがどうだったかは覚えていないけれど、別に全然ピカピカじゃなかったと思う。

あるセミナーで、たまたまエリック・シュミットが現れて、ひとしきり喋っていった事があった。ざっくりしたシャツと、チノパンだった。ピッカピカではないけれど、すげーなと思った。

情熱の向いている方向、っていうのがあるのだろう。何かを食い物にしようという情熱は、スーツをよりピカピカに仕上げるのかもしれない。

香港2011年

Nathan Road, Hong Kong

Photo: “Nathan Road” 2011. Hong Kong, Apple iPhone 3GS, F2.8/37.

香港便。結局、退屈しきったので、PCを取り出して、文章を打ち始めた。

香港。それが中国という意味であれば、僕は中国には行ったことがある。しかし、そもそも通貨が異なる。中国行きの、ましてコードシェアであれば、それなりにアジアな喧噪を想像したが、そうでもない。中国本土行きに比べれば、乗客の民度というかお行儀は格段に良い。持ち込む荷物の量も少ないし、席を隔てたおしゃべりもあまりない。本土と香港は一つの国だとは言っても、租借の期間に歩んだ道のりの差異が、そういう所にも出ているのだと思う。もちろん、隣に座った香港人はヘッドフォンを付けず、大音量で iPhone で撮影した日本滞在中の動画を鑑賞している。

それも、まあ、そういうもんだろうと思うのは、僕が少しアジア圏のスタンダードに慣れたからなのかもしれない。


朝は、いつものように、少し早めの空港行きのバスに急いで乗った。こういうのは、勢いが大事で、迷っていたら永遠に荷造りなんて出来ない。バスの一番前の席に座って、曇り空の一日が明けていくのを眺める。毎日、日本から旅立つ人と、海外から降り立つ人を、運びつつけている運転手は、どんな気分でいるのだろう、という、いつもの疑問を頭の中で転がしながら、前を見つめる。

幕張を過ぎたあたりで、高速道路沿いにぼた山が見えてくる。厳密にはそう呼ばれるものでは無いのかもしれないが、僕のイメージではそれはぼた山だ。ただの建設残土の塊だった山に、数年で樹木が生えて、いまは少し山っぽくなってきた。張りぼてのミラコスタの壁を眺め、グランドオープンと書かれた、眩しい照明看板を掲げるラブホテル(午前6時だ)を通り過ぎ、一面の水田とそびえるゴミ焼却場。

誰だ、成田に空港を作ろうと考えたのは。

(震災前の文章)