The mind is flat.

Photo: “菊花”

Photo: “菊花” 2001. Shinjuku, Japan, Contax RX, Carl Zeiss Planar T* 1.4/85(MM), Kodak EL-2

The mind is flat. (邦題は、”心はこうして創られる 「即興する脳」の心理学”)読み進めるほどに、諸相がつながる、そんな本に毎年1冊くらいは出会うが、今年それを体験したのはこの本だった。東洋の釈迦の教えも、西洋のマインドフルネスも、心の表層に生成される感情と反応への、正しい対応のあり方を説いている。そんな感情・反応といった、意識の「表層」として西洋の科学が捉えてきたものが、実は、意識「そのもの」である。それがこの本の冒頭で語られる結論であり、西洋科学がようやく東洋に追いついたのか、という気分になる。


目新しくは無い。日本人として、既に知っている事を、科学によって説明されている。そういう既視感がある。この本が刊行されたのは2018年で、これはGPTが産声を上げたばかりの時期だが、この本の序章の恐ろしさは、今だからこそ一般の我々にも肌身で分かる。LLMがやっている文章の認識と生成。これは、(もの凄く端折って言えば)文章の直前のコンテキストとそこから取り得る可能性を、既知の学習データから生成することで、何故か「知性」の存在を感じるに足るリアルさをもった回答を得ることができる技術だ。それは、何故なのか?深層心理も、考える仕組みも、意識も、持っていないアルゴリズムが、なぜそのような真に迫った回答を返してくるのか。


「それは、人の意識が同じアーキテクチャだからだ。」という恐ろしくも単純な結論が、序章で既に浮かび上がっている。脳のモデルをプログラムの形で実装することが失敗したのは、そもそも我々のアウトプットが、コーディングされたルールのような系統だったものではなく、ニューラルネットワークで示されるような、入力に対する反射的なアウトプットである事に原因がある。もちろん、我々の身体には、脳のカーネルと呼べるような永続的な部分も有るのだろう。例えば、感覚器官との接続などのBIOSのような部分を担うところは、確かにプログラムのような、コードのような要素であり、ハードコードされているようだ。しかし、「個」のようなものがコードのように脳の中に存在している可能性は低い。意識は、脳のインフラの上に浮かんでは消える(KillあるいはExit)アプリケーションなのではないか。その結果のいくらかは、永続的記憶に経験値としてコードされ、大半は忘れられ(パージ)ていく。そんなモデルの考え方が、いとも簡単に立ち上がってくる。

だから、AIがシンギュラリティになる。のか?そこまでは、よく分からない。しかし、この本で語られているモデルが突きつける、冷たい刃のような納得感は、拭いがたい。

癌サバイバー2名と飲む

Photo: "Bar."

Photo: “Bar.” 2005. Tokyo, Japan, CONTAX T3 Carl Zeiss Sonnar T* 2.8/35, Kodak 400TX.

今週はいささか奇妙な週だった。僕は個人的な嗜好としてもう酒は飲まないが、酒席というものは存在している。そして、私は癌だったので、と飲んでいる相手が僕に向かって言うのは、その時、今週2回目だった。日本人の癌の罹患率を考えれば、それはそんなに不思議なことではないし、どちらも僕の一回り上の人だから、まぁ、それはあり得る話だ。とはいえ。


片方の人を僕はよく知っていて、豪放磊落というか、まぁポジティブな人ではある。と同時に、好き嫌いもはっきりしていてそりの合わない相手には容赦が無い(その手の人に仲良くしてもらうのは昔からだ)、そんな毒舌も僕は好ましく思っている。もう片方はその日初めて酒席が一緒になった人で、話すうちにだいぶ波瀾な人生に内容が及んだ。その半生は、よほどの前向きさが無いと乗り切れない感じで、そのキャリアを通じて自分が社長の会社を2回か3回潰している。まぁ、どっちも恐るべき前向きタイプではあるようだ。

彼らは、飲み過ぎるということはもちろん無いが、少し正体があやしいぐらいまでは飲むタイプのようだった。その病をくぐり抜けてきたのであれば、そして今でも定期的な検査が必要な身であれば、それなりに生命の微妙なバランスとか、たまたま運良く生きているだけ、という生物の危うい感じはよく分かっているはずだ。しかし、それでも酒を飲み続けるのは、まあそうなのだろう。僕が入院していた時に、抗がん剤の導入のために入院していた同室のおっさんも、なにやら同窓会的な飲み会の打ち合わせを、見舞客としていた。


もちろん、いずれの時も、僕にはまったく飲みたいという気分は無く、ひたすら大量のジンジャーエールを飲み続けたのであった。それにしても酒を飲まないと、どうしても料理への評価は辛くなる。マリアージュ云々の話では無い。アルコールで味覚が誤魔化せないからだ。

森のピクニックセット

Photo: “Forest picnic set.”

Photo: “Forest picnic set.” 2023. Hokkaido, Japan, Apple iPhone 14 Pro Max.

朝、ミーティングとミーティングの合間に朝食を食べる時間はありそうだ。しかし、レストランで朝食は嫌だなと思う。出張先のホテル朝食を、僕はだいたい食べない。だいたいが決まった内容だし、それにしては朝の30分は費やす訳で、とても無駄に感じるからだ。気乗りがしないまま、ホテルの案内を眺めていると(最近気がついたのだが、マニュアルを読むべきなのと同じく、ホテルの案内はちゃんと読むべきなのだ)、ピクニックセットという文字が目にとまる。


朝食付プランのお客様は、「森のピクニックセット」を利用可能、との事。そう言えば、ホテルの入り口にパン屋が有った。まぁ、それも良いだろう。パンがいくつか貰える位かな、と思いながら開店直後で他に客も居ないパン屋に入った。

「あちらのケースから、3つお選びください」という、まぁ予想通りの事を言われて、パンを選ぶ。朝はなんとなく、甘いものを選んでしまう。と、その間に店の人が、なにやら大きなバッグを用意している。お湯を魔法瓶に移し、コーヒーミルが用意され、その他いろいろなものが詰め込まれていく。

これは?つまり、ものの例えではなくて、本当にピクニックセットという事?そして、それは本当のピクニックのためのセットであり、僕はバッグを渡される。

「森はどこにあるんですか?」
かもめ食堂のワンシーンのような質問をすると、地図をくれた。本当に、森に行くためのセットなのだ。部屋に持って帰ってさっと食べるとか、そういうコンセプトのものではない。時計を見る、次の予定までの時間を考える、多分問題無い。出発しよう。


大きなバックを肩にかけて、地図を見ながら緩い坂道を登っていく。群生する花の向こうに沼が見え、蜂の羽音が聞こえてくる。吹き抜ける風は涼しく、太陽は暑い。上がっていく気温に、有機物が分解される田舎の匂いが鼻腔に流れ込んでくる。途中、沼に面して大きなガラス窓を設えた東屋があったが、やっぱり外で食べようと考える。ピクニックセットなのだ。

途中で舗装が途切れた径を進み、小高い丘にたどり着いた。野外のテーブルに、セットを広げる。ここまで誰にも会わなかったし、周りに人の気配は全くない。バッグの中身は、予想以上に本格的で、コーヒーミルで豆を碾き、ドリップするための一式が入っている。選んだパンの他に、バナナと、スープにサラダも付いている。これは、凄いな。

ガリガリとミルを回しながら、辺りを見回す。とにかく大陽が暑い。
草の匂いが、満ちている、蜂が飛び回っている。