鍋焼きうどんになぜか入っている伊達巻

Photo: “Unknown spring soup.”
Photo: “Unknown spring soup.” 2021. Tokyo, Japan, Apple iPhone XS max.

帰省しないと決めてしまうと、特に正月らしい料理というものもなくなる。しかし、この時期に食べたいものというのは、有る。つまり、伊達巻きと、三つ葉と、餅だ。

ケーキみたいな値段の伊達巻きを、年末に成城石井で買った。しかし、それをそのまま食べるというのも、ちょっと味気ない。鍋焼きうどんになぜか入っている伊達巻き、あれがなんだか食べたくなった。(鍋焼きうどんに伊達巻きなんか入らない、と言う人も居るだろうが、僕が食べていた店屋物の鍋焼きには伊達巻きが入っていたのだ)


伊達巻きを、温かい出汁に漬していきたい。好物の三つ葉も浮かせたい。そうなるとお雑煮みたいなものだから、餅も焼いて入れたい。冷蔵庫を覗くと、思わず手に取った初物の菜の花も有った。

菜の花を料理すると、なんだか春がもう来たようで楽しい気分になる。餅を焼いて、菜の花を軽く煮て、多めの三つ葉を洗って、食べたいものを全部出汁に入れ込んだら、意味のよく分からない汁物が出来上がった。意味はよく分からないが、春っぽくて、ほの甘苦くて、まずまず美味しい。

力の入っていないコンテンツだけを見ていきたい

Photo: "Night stalker"
Photo: “Night stalker” 2000, Kobe, Nikon F100, 35-105mm F3.5-4.5D, Fuji-Film RHP III

タイムラインで、力の入っていないコンテンツだけを見たい、というコメントを見て、ああ、まさしくそれが気分だなと思った。ためにならないものを、感動がないものを、発見がないものを、だらだら見たいのだ。受け取るための力を要求されないものだけが、必要。

年末、wired conference 2020のキーノートで、Kevin Kellyが話した内容があまりにも素晴らしくて、400ページある代表的な著書のテクニウムを直ぐに読み切った。この10年、もやもやしていた事が、一気に繋げられた感じ。

そういう事に使う力と、コンテンツを消費する力はちょっと違う所に属していて、今は、コンテンツの方はお休みにしておきたい気分。


最近ようやく学んだのは、その時やりたいように、その時の自分のプライオリティに従うのが一番良いという事。だから、今は存分に咀嚼力不要のコンテンツだけを、食べていく。

羊ページ、咀嚼力を要求したり、しなかったりするサイト。26年目、よろしくお願いします。

ロンメルの本を読んで面白かったのは

Photo: "波頭"
Photo: “波頭” 2006. Izu, Japan, Contax RX, Carl Zeiss Planar T* 1.4/85(MM), Kodak EBX

歴史の本と、旅の本と、テクノロジーの本を交互に読んでいる。”「砂漠の狐」ロンメル ヒトラーの将軍の栄光と悲惨”を読んだのは夏の初めの頃。

読んでいて印象に残ったのは、ロンメル自身の歴史よりも(実に、職業軍人というのはサラリーマン的な人生を辿るものというのは、発見だった)、ノルマンディー上陸は全体的には奇襲であって、ドイツ側の抵抗は弱く、例外がオマハビーチだったというエピソード。


ヨーロッパ戦史に詳しい人には常識なのだろうが、そんな認識は僕には無かった。プライベートライアンの、あの冒頭の印象がノルマンディだし、Dデイだ。映画も小説も、オマハビーチしか取り上げないから、ノルマンディー全体が激戦だったような印象なのだが、あれは一部の話なのだ。

キャパの写真で有名で、プライベートライアンでもっと有名な、あのオマハビーチの光景は、言ってしまえば例外。歴史はきちんと総体を把握しないと、理解が歪む。まして、現在進行形の今の状況なんて、ほとんど実態が見えていないと言っても過言では無いだろう。


そう言えば、3.11の光景も、メディアの中の景色と、僕が見たあの日の景色は全然違うし(揺れる神宮球場の照明と、混み合った呉服橋のガード下の居酒屋が、鮮烈な景色として残っている)、今のCOVID-19も歴史に残る景色と、僕たちの見る個々人にとっての日常には、相当な乖離が出るだろう。

だとすれば、歴史として自分が見ているこの世界の過去の姿は、どの程度、正しいのだろう?歴史というのは、何が反映されているのだろう。知っている気でいるが、本当に、何を知っているのだろう。