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狩野尚信 山水図屏風

Photo: “Saru Machi Cafe.”
Photo: “Saru Machi Cafe.” 2025. Tokyo, Japan, Apple iPhone 14 Pro Max.

荏原 畠山美術館。入り口から建物を周りを囲む庭は立派で、そこまでなら無料。こんな場所に、こんな立派な私営の美術館がある、東京の文化資本の凄さ。

国宝も含む展示のクオリティはとても高いが、中でも狩野尚信「山水図屏風」(ざっくりな名称なのか?)の一双を、かなりの時間眺めていた。床几台に座って全体をボンヤリ眺めたり、最近買ったZeiss Mono 4X12T*(とても良い)で筆運びを見たり。


狩野尚信は狩野探幽の弟。探幽の名前は、多くの人が知っているから、それを軸に〜の弟とか、〜の孫とか言われるのは仕方ない。それは、後世の事だろうか?リアルタイムでは、どのように認識されていたのだろう。鍛治橋とか、浜町とか、現代の地理感覚でも認識できる、徒歩圏の狭い地域に江戸狩野派が住まっていた時代というのは、どんな感じだったのか。

くどくど解説が書いてあるわけでは無い。基本、自分で眺めて、自分で感じるしか無い。

画面全体が、水に満ちた構図というのは分かる。しかし、これが川なのか、湖なのか、海なのか。標高はどうなのだろう。水表の向こうから、太陽が昇りつつあるようにみえる。馬に乗った師匠と弟子が配される構図は、定番なのだろう。

立ちこめた朝霧の向こうから、岩礁が、やがて目に入ってくる。村の中には急流が流れている。とすれば、ここは山奥だろうか。しかし、水面は広く、彼方に船のマストが見える。これは漁船だろう、とすれば、カルデラ湖のようなものか、あるいは中国の険しい山中を想像して書いたのか。南宋画の世界観だろうか?

ずっと見ていると、日が昇りいろいろなものがカタチを持って見えてくる。音だけがしていた急流がカタチを持って現れ、それを渡ろうとする村人の生活が立ちあらあれてくる。向こうには、立派な寺院のような屋根が見える。遠くの峰も見えてくる。霧が晴れると一日がはじまっていく。そういう世界だろうか。分からない、が、正解も別に無いだろう、。

最近は、日本画が良いなと思う。自然に体の中に入ってくる感じがある。あるいは、小さい頃に祖父母の家で見ていた、古びたふすま絵の様子を、脳が想起しているのかもしれない。


ちなみに、併設のカフェでは、(タイミングによるのだろうけれど)凄く手の込んだケーキを食べられた。

1997年、MIDIデータの接続

Photo: “LIFE-fluid, invisible, inaudible…” 2024. Tokyo, Japan, Apple iPhone 14 Pro Max.
Photo: “LIFE-fluid, invisible, inaudible…” 2024. Tokyo, Japan, Apple iPhone 14 Pro Max.

東京都現代美術館で開催の坂本龍一の展覧会に、誘われて行ってみた。年寄りしか来てないんじゃ無いか、そんな予想はあっさり裏切られて、20代を中心に若い世代がマジョリティ。皆、坂本龍一を聞いていたのか?

ツアーの感想をMailing Listに投稿して、返事をもらったことを、かなり鮮明に覚えている。1997年の話だ、それから、なんだか左寄りにどんどんなっていって(元々、そうだった、という話はあるが)、ピアノソロのツアーを回っていたりして、というのを、遠く片目で見つつ、あまり聴かなくなった。

いや、Little Buddhaの日本版サントラに入っているAcceptanceだけは、自分のプレイリストに常に入っていた。川辺を走りながら聴く、終末の独りの静謐のような、その曲は自分の気分にとてもよく合った。


展示はインスタレーションで、音がテーマだから1つ1つ見るのに、時系列というか一定の時間が必要で、霧の展示にたどり着くまで2時間近くかかった。会場全体を通して、意地でも戦メリが流れていないのは、それはそれで良かった。そういう展示会じゃ有りません、というキュレーションなのだろう。The Sheltering Skyがフロアを超えて、響いていた。

会場の出口手前の人だかりで足が止まる。YAMAHAのMIDIピアノが鳴っている。ホログラムのような、ハーフミラーにボンヤリと人影が映り、手の動きに合わせて鍵盤が沈み込む。展示は、坂本龍一×岩井俊雄《Music Plays Images X Images Play Music》

ここだけ、空気感が違っている。奇妙な、葬式のようなと僕は感じた。1997年の彼の演奏データが再演されている。録音とは違う、四半世紀前のMIDIデータが、2024年に実際のピアノをライブとして奏でている。

アーティストとは?パフォーマンスとは?データとは?そういうインスタレーションなのかもしれないが、会場に浮かんでいたのは、もっと生々しいというか、思いがけずファンだったアーティストの遺影に触れてしまったような戸惑いと、感情の揺さぶりと、そんなものだった気がする。


帰り道に、偶然立ち寄ったおでん屋は美味しかった。餃子まき、というものを初めて食べた。

シン・レッド・ライン

Photo: “Leaf veins.”
Photo: “Leaf veins.” 2001, Kanagawa, Nikon F100, 35-105mm F3.5-4.5D, Fuji-Film Trebi

シン・レッド・ラインは、なんとなく何年も見る気にならなかった。だが、見始めて、最初の3分でこれは自分が生涯好きになる映画の5本に入るんだろうと分かった。

本当に、良いと思う映画には、筋らしいものは無い事が多い。いや、やがて筋は気にならなくなると言うべきだろうか。

一カット、一カットが素晴らしい。
描かれる人生が無常なのも、素晴らしい。
たった1カットの、泥の中でもがいて死んでゆく小鳥の姿が、絶対に忘れられないカットになる、そしてそれが、通底するテーマになる。恐ろしい映画。


良い映画は旅をしている気分になる。

これは戦争映画だけれど、戦争を描いているわけではないのだろう。中間管理職の映画みたいにも観られる。人生の潮目みたいなものの映画にも観られる。

見るタイミングで、いろいろ違う見方ができる底知れない深さがあることは分かる。役者がギャラに関係なくテレンス・マリック監督の映画に出たがるというのも、分かる気がした。