
荏原 畠山美術館。入り口から建物を周りを囲む庭は立派で、そこまでなら無料。こんな場所に、こんな立派な私営の美術館がある、東京の文化資本の凄さ。
国宝も含む展示のクオリティはとても高いが、中でも狩野尚信「山水図屏風」(ざっくりな名称なのか?)の一双を、かなりの時間眺めていた。床几台に座って全体をボンヤリ眺めたり、最近買ったZeiss Mono 4X12T*(とても良い)で筆運びを見たり。
狩野尚信は狩野探幽の弟。探幽の名前は、多くの人が知っているから、それを軸に〜の弟とか、〜の孫とか言われるのは仕方ない。それは、後世の事だろうか?リアルタイムでは、どのように認識されていたのだろう。鍛治橋とか、浜町とか、現代の地理感覚でも認識できる、徒歩圏の狭い地域に江戸狩野派が住まっていた時代というのは、どんな感じだったのか。
くどくど解説が書いてあるわけでは無い。基本、自分で眺めて、自分で感じるしか無い。
画面全体が、水に満ちた構図というのは分かる。しかし、これが川なのか、湖なのか、海なのか。標高はどうなのだろう。水表の向こうから、太陽が昇りつつあるようにみえる。馬に乗った師匠と弟子が配される構図は、定番なのだろう。
立ちこめた朝霧の向こうから、岩礁が、やがて目に入ってくる。村の中には急流が流れている。とすれば、ここは山奥だろうか。しかし、水面は広く、彼方に船のマストが見える。これは漁船だろう、とすれば、カルデラ湖のようなものか、あるいは中国の険しい山中を想像して書いたのか。南宋画の世界観だろうか?
ずっと見ていると、日が昇りいろいろなものがカタチを持って見えてくる。音だけがしていた急流がカタチを持って現れ、それを渡ろうとする村人の生活が立ちあらあれてくる。向こうには、立派な寺院のような屋根が見える。遠くの峰も見えてくる。霧が晴れると一日がはじまっていく。そういう世界だろうか。分からない、が、正解も別に無いだろう、。
最近は、日本画が良いなと思う。自然に体の中に入ってくる感じがある。あるいは、小さい頃に祖父母の家で見ていた、古びたふすま絵の様子を、脳が想起しているのかもしれない。
ちなみに、併設のカフェでは、(タイミングによるのだろうけれど)凄く手の込んだケーキを食べられた。


