Photo: “Early Summer Pond with Water Striders.” 2025. Tokyo, Japan, Fujifilm X-Pro2, Fujifilm M Mount Adaptor + Carl Zeiss Biogon T*2,8/28 ZM英会話から帰ってきて、ステーキを焼いて食べた。オージービーフのグラスフェッドは、焼いた後もフライパンに脂が残らない。実に淡泊で、今の自分には好ましい気がした。うまいか、と言われれば、USプレミアムなんかより、うまみはないのだが。楽に食べられるというところでは、そうなのだ。一昨年沖縄で買った、そして幾分湿気てしまった、ミックス・スパイスを振りながら食べる。
そうして、午後は国立近代美術館に行こうかと調べるが、混雑しているというGoogle Mapの表示が気持ちをなえさせる。それでも、自分を奮い立たせて準備する。でも、洗面所のドアの角に足の小指をぶつけて、一気にやる気が失せた。というか、これはあんまり良くない方向性、何かがズレている。無理に進むのは良くない、と思い直して美術館を諦め、すぐに昼寝に変えた。撤退、リトリート。
何度か目が覚め、そのたびに日は傾き、午後7時を過ぎたぐらいに起き上がる気になった。起き抜けのベットから、iPhoneが床に転げ落ち、ガタリと音を立てた。寝室の床に落ちたぐらいでは、別にどうということはない。無理に出かけていたら、もっとろくでもない目に遭っていた、そんな気がした。
まだズレている。もう少ししたら元に戻るだろう。
何もしなかった今日の締めくくりに、FujifilmのX-Pro2を引っ張り出してきて、調子を見る。暫く使っていないが、コンディションは全然OKだ。バッテリーは買い直してあるし、設定も見直して、ファームウェアも上げてある。準備は出来ているから、もう一度慣れて、手に馴染ませるだけの話だ。ある程度、見た目がカメラカメラしていた方が、かえって撮りやすいのではないかと、この前の市場の廊下で思った。それは、確かにそうなのだ。カメラマン然とした様式美のようなものが、写真を撮るという行為を周りに許容させる。そういうものだ。
ペーパードリップで入れたコーヒーを飲んで、夜の闇に光る橋を見つめる。コーヒーの良し悪しは、僕には分からない。美味い基準というのが分かっていない。だから、別に美味いとも不味いとも思わずに飲んでいる。だから買い置きの粉は、あまり量が減らない。いつ開けたかも定かで無い粉を、琺瑯の入れ物からついで、ドリップしている。多分、量は多くて濃い目なんだと思うが、全然減らないので、惜しくは無い。
タワマンに住むと、窓の景色は見慣れてしまって、やがて見なくなるとも言う。そんな気はする。内見で幾つかの物件を回ったときに、建ったばかりのタワーマンションも試しに見てみた。エレベーターホールは、デパートかオフィスビルのそれで、自分がこんな所に毎日帰宅するという想像がつかなかった。
その部屋から見る景色は、まぁ、眺めとしては良いのだろうけれど、地上から全てが遠すぎて、逆に見るべきものが無いように思えた。ビルトインの食洗機は魅力的だったが、まったく入居する気が無いことは、すぐに不動産屋にも伝わったのだと思う。部屋に来るまでの彼の熱心なセールストークは、止んでいた。
今住んでいる、この部屋から見る景色はずっと観ていられる。もっと、ずっと地上に近い。目の前を流れる川は、一時として同じ事は無く、違う流れが永遠に続く。ここにずっと住むことは無いにしても、もう暫くはこの眺めを楽しみたい。実際、この眺めにはいろいろ救われる所がある。対岸まで、まったく人目が無いのもいい。都心の空白地帯みたいなものだ。