Photo: “Over the fence.” 2017. Chiba, Japan, Fujifilm X-Pro2, Fujifilm M Mount Adaptor + Carl Zeiss Biogon T*2,8/28 ZM, PROVIA film simulation
なぜか理由は分からないのに、ずっと印象に残っている話というのが有る。
僕はキリスト教系の学校に行っていたので、当然のように礼拝があり、聖書の授業があった。聖書には沢山の例え話が出てくるが、意味が分からないものも多かった。
中でも、奇妙に印象に残っているのが、いわゆる「放蕩息子の例え話」だ。筋は比較的簡単。有るところに兄弟が居て、弟は父の財産の半分を受け取り、旅に出て好きに暮らした。兄は、父の元で真面目に働いた。やがて、財産を使い果たし、一文無しになった弟は故郷に帰ってくる。それを見つけた父は、喜んで祝宴を開くが、兄がこれに文句を言う。なぜ、家を捨てた息子の帰郷を祝ってやるのか。父は、こう諭す。
すると父は言った、『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』(ルカによる福音書 15章 31-32節)
なんとも腑に落ちない話だ。宗教的に言えば、きちんと解釈があって、神に逆らった者に対する赦しを表している、と習う。当時僕は、なるほど、そうか、とは思わなかった。(だからクリスチャンにもならなかったのだろう)
でも、今、ふとこの物語を思い出して、もっと深いところで共感を感じる。クリスチャンでは無い僕は、聖書を聖典だとは考えないが、聖書はナラティブ(物語)としてとても優れていると思うようになった。数千年にわたって、人々が蓄積してきたナラティブの深さ。1節 1節は、現代の文学からすれば、至って淡泊で簡潔だが、その向こう側には今と同じ苦悩も、喜びも有る。
そうして、この短い例え話は、失われたものを、再び見いだした人の、純粋な喜びが表されたナラティブだと、僕は思う。失われていたのに、見つかったのだ。喜ぶのは、あたりまえなのだろう。