Spotifyの音質の悪さと、Hi-Resが蘇らせる空気

Photo: "Music"
Photo: “Music” 2006. Tokyo, Japan, CONTAX T3 Carl Zeiss Sonnar T* 2.8/35, Kodak EBX.

Spotifyの音質の悪さは、その筋の業界で働いていた友人に言われて改めて気がついたのだが、そう言われてみると、なんとなく我慢ならなくなって、またApple Musicをアクティブにしてみる。もうLosslessでの提供は当たり前になっていて、(彼らの考える)重要な、あるいはポピュラーなアルバムは、Hi-Resで提供されていたりする。違いが分かるのか?と言われれば、流石にHi-Resだと分かってしまう。理屈は分からないが、分かることは、分かるのだ。


Hi-Resになっている基準がよく分からないが(調べてもいないが)、新譜・旧譜はあまり関係ないようだ。尾崎豊が軒並みHi-Resになっていて、改めてちゃんと聴いてみると、一曲ごとに録音の空気感が全然違っていたり、そういうことを三十年とかそういう時を超えて気がついたりする。そうして、あの頃の、なんにもない空気感、突き放されたような、それでいて、なんでも持っているような、そんな感じが蘇る。人は、昔の曲をそういう想いをもって聴くのかと、そういう事に思い当たり、残念な気持ちになる。

始発を待つ冬の払暁の冷え切った空気とか、カラオケボックスの饐えた煙草の臭いとか、歌舞伎町の街頭に出ている屋台の具のないラーメンとか。そういう、キーワードに導かれた記憶なのか、擬似記憶なのか分からないものが意識に沸き上がってくる。

自分がやっていることは、たいして変わらない。面白いと思うことも大して変わらない。売れない芸人が抜けられないのは、金以外は全部ある、終わらない、というか引き延ばされた青春みたいなものがそこにあるせいだ、というのを錦鯉のしくじり先生でやっていて、そういえば、俺の青春はどこで終わったんだっけ?とか思ったりする。

The mind is flat.

Photo: “菊花”
Photo: “菊花” 2001. Shinjuku, Japan, Contax RX, Carl Zeiss Planar T* 1.4/85(MM), Kodak EL-2

The mind is flat. (邦題は、”心はこうして創られる 「即興する脳」の心理学”)読み進めるほどに、諸相がつながる、そんな本に毎年1冊くらいは出会うが、今年それを体験したのはこの本だった。東洋の釈迦の教えも、西洋のマインドフルネスも、心の表層に生成される感情と反応への、正しい対応のあり方を説いている。そんな感情・反応といった、意識の「表層」として西洋の科学が捉えてきたものが、実は、意識「そのもの」である。それがこの本の冒頭で語られる結論であり、西洋科学がようやく東洋に追いついたのか、という気分になる。


目新しくは無い。日本人として、既に知っている事を、科学によって説明されている。そういう既視感がある。この本が刊行されたのは2018年で、これはGPTが産声を上げたばかりの時期だが、この本の序章の恐ろしさは、今だからこそ一般の我々にも肌身で分かる。LLMがやっている文章の認識と生成。これは、(もの凄く端折って言えば)文章の直前のコンテキストとそこから取り得る可能性を、既知の学習データから生成することで、何故か「知性」の存在を感じるに足るリアルさをもった回答を得ることができる技術だ。それは、何故なのか?深層心理も、考える仕組みも、意識も、持っていないアルゴリズムが、なぜそのような真に迫った回答を返してくるのか。


「それは、人の意識が同じアーキテクチャだからだ。」という恐ろしくも単純な結論が、序章で既に浮かび上がっている。脳のモデルをプログラムの形で実装することが失敗したのは、そもそも我々のアウトプットが、コーディングされたルールのような系統だったものではなく、ニューラルネットワークで示されるような、入力に対する反射的なアウトプットである事に原因がある。もちろん、我々の身体には、脳のカーネルと呼べるような永続的な部分も有るのだろう。例えば、感覚器官との接続などのBIOSのような部分を担うところは、確かにプログラムのような、コードのような要素であり、ハードコードされているようだ。しかし、「個」のようなものがコードのように脳の中に存在している可能性は低い。意識は、脳のインフラの上に浮かんでは消える(KillあるいはExit)アプリケーションなのではないか。その結果のいくらかは、永続的記憶に経験値としてコードされ、大半は忘れられ(パージ)ていく。そんなモデルの考え方が、いとも簡単に立ち上がってくる。

だから、AIがシンギュラリティになる。のか?そこまでは、よく分からない。しかし、この本で語られているモデルが突きつける、冷たい刃のような納得感は、拭いがたい。

癌サバイバー2名と飲む

Photo: "Bar."
Photo: “Bar.” 2005. Tokyo, Japan, CONTAX T3 Carl Zeiss Sonnar T* 2.8/35, Kodak 400TX.

今週はいささか奇妙な週だった。僕は個人的な嗜好としてもう酒は飲まないが、酒席というものは存在している。そして、私は癌だったので、と飲んでいる相手が僕に向かって言うのは、その時、今週2回目だった。日本人の癌の罹患率を考えれば、それはそんなに不思議なことではないし、どちらも僕の一回り上の人だから、まぁ、それはあり得る話だ。とはいえ。


片方の人を僕はよく知っていて、豪放磊落というか、まぁポジティブな人ではある。と同時に、好き嫌いもはっきりしていてそりの合わない相手には容赦が無い(その手の人に仲良くしてもらうのは昔からだ)、そんな毒舌も僕は好ましく思っている。もう片方はその日初めて酒席が一緒になった人で、話すうちにだいぶ波瀾な人生に内容が及んだ。その半生は、よほどの前向きさが無いと乗り切れない感じで、そのキャリアを通じて自分が社長の会社を2回か3回潰している。まぁ、どっちも恐るべき前向きタイプではあるようだ。

彼らは、飲み過ぎるということはもちろん無いが、少し正体があやしいぐらいまでは飲むタイプのようだった。その病をくぐり抜けてきたのであれば、そして今でも定期的な検査が必要な身であれば、それなりに生命の微妙なバランスとか、たまたま運良く生きているだけ、という生物の危うい感じはよく分かっているはずだ。しかし、それでも酒を飲み続けるのは、まあそうなのだろう。僕が入院していた時に、抗がん剤の導入のために入院していた同室のおっさんも、なにやら同窓会的な飲み会の打ち合わせを、見舞客としていた。


もちろん、いずれの時も、僕にはまったく飲みたいという気分は無く、ひたすら大量のジンジャーエールを飲み続けたのであった。それにしても酒を飲まないと、どうしても料理への評価は辛くなる。マリアージュ云々の話では無い。アルコールで味覚が誤魔化せないからだ。