オンスケジュール

この調子だと、絶対倒れる。

といっても、別に脳卒中とかそういうのではなくて、疲労と風邪での話しだ。先週ぐらいから、朝11時から、夜11 時過ぎまで、とても勤勉に労働をしていた。おかげで、プロジェクトの自分の担当部分に関しては、とりあえずオンスケジュールでできあがった。が、それでも う限界。体温はどんどん上がり、昨日の午後2時過ぎにはついに思考能力が消失したので、即、帰ることにした。

「いってらっしゃい」

エレベーターですれ違った、同僚の女性は、僕が客先に行くものだと勘違いしていた。なんせ、まだ2時半だし。

今日は、本来であれば、幕張まで行かなければならないので、午前6時に起きる。しかし、動けず。8時まで寝てみたが、やはり無理。しかし、一応起きて朝食を食べ、外に出てはみるものの、世界が回っていたので、ここに至って「行けない」と判断した。

しかし、ふと考えてみると、そこまでして仕事に行こうとしている自分に苦笑する。休んだからといって、別に誰かに 怒られるわけではない。冒頭のプロジェクトだって、マネジメントは僕がやっているのだから、僕が予定を書き換えれば済む話しなのだ。それでも、自分の責任 を考えてしまうと、どうにも弱い。なんか、典型的に過労死しそうな思考パターンだ。< 自分はそういう愚かなことはしたくないし、まさかしないだろう、、。とばかりも、言えない気がしてきた。よくない。 また熱出てきた、、。

後になってから分かる

例えば神戸旅行の日記と、韓国出張の日記はかなり頑張って、現地で書いた。しかし、結局は面白くないし、自分で読み返す気にもなれない。大切な部分が、何一つ文章に入っていかない。輪郭をなぞるこ としかできない。それは、書いているときから分かっていた。大切なことを書き留めようとしているのに、ポロポロとこぼしている。それが分かってしまう。かように、人が、「今」を見定める能力というのは、とても低い。

何がその時大切だったのかは、後になってから分かる。僕たちは皆、意外なほど賢くない。だから、余計な記憶がすっかり抜け落ちてしまってから、ようやく後に残った大切ものに気がつく。分かるのは、既に消化された、今となっては取り返しのつかない部分、過去の事。


自分でちゃんと意味が分かったり、理解できたりするときには、たいていのことがあまりにも昔の出来事になってしまっている。こう書くと、僕はさぞか し後悔に満ちた人生を送るタイプに思われるかもしれない。しかし、僕は後悔というのはあまりしない。その時々の事に関して、後から評価するのはフェアじゃ ない、そう思うからだ。平たく言えば、その時、その人は、そういう風にしか分からなかったんだよね、という風に、自分に対しても他人に対しても考える。そ して、あのときこうしていれば、という風には考えないようにしている。

しかし最近、そういう考え方は良くないのかも、と思い始めた。それは、自分で可能性を刈り取っていくような、そんな行為なのかもしれないからだ。以 前は、そういう風に考えられることが、「大人なこと」だと思ってきたのだけれど、単に可能性に賭けることに疲れた人間の、言い訳なのかもしれない。近頃 は、そう思うのである。

何を頼りに生きているのか

自分が何を信じて生きているか、言い換えるならば、何を頼りに生きているのか、を考えてみる。

自分の才能を信じて生きているのではないかと、思う。

他にも、答えはいろいろあるだろう。友達、って言う人もいるだろう。僕には、本当の意味で、大切な友人が何人かいる。しかし、僕は彼らに頼って生き るような真似はしたくない。自分を愛してくれる人のため、そして自分が愛する人のため、と言う人もいるだろう。残念だけど、今の僕にはそう言い切れる人も いないし、将来、それが自分にとっての答えになり得るのかどうかも分からない。自分がかわいいから、あるいは、「生き続けない」勇気が無いから、と言う人 もいるだろう。死にたくないことを頼りに、生きるというのは、間違っていないと思う。でも、今の僕は、その答えには納得できない。


社会に出てしばらく経つけれど、あらゆる領域に於いて「才能」を信じて生きている人と、そうでない人、というのが居るような気がする。そして、自分が明らかに前者に属していると感じる。

自分が昔追っていた夢について、人の話を聞くことがある。夢は、才能を喰う。夢を持ち続けるのであれば、溢れる才能を、夢に与え続けなければならな い。与えるべきものが、全く尽きてしまった時、あるいは、与え続けることに恐怖を抱いたとき、それは「夢」から、「追っていた夢」に変わる。

あるいは、自分の夢が何にあるのか分からない、そういう人の話を聞いていると、言いようのない悲しさを覚える。見つからない夢、折り合わない才能。

僕って才能があるでしょ、凄いでしょ、とかそういうことが言いたいのでは全くないし、僕が、妙な選民意識を持っているわけでもない。「才能」なんて いうものは、ものすごく不安定で、育てにくく、失われやすい。そんな才能とのつき合いを、諦めてしまったり、あるいはその存在にさえ気がつかない人は多 い。しかし、それでも、その「才能」を信じ、「才能」とのつき合いを諦めない人たちが居る。そういう話しだ。

でも、そういう人の数は、そんなに多くないように思う。だって、きっと辛いから。しかも、そんな風に生きている人の多くには、実は本当の才能なんて無いだろう。もちろん、僕にだって。

それでも、僕はそういう風に生きる。考えてみて、そうだと「分かった」。