死ぬかと思った

正確に言えば、その時僕は自分が、そんなに危ないところに居るという自覚は無かった。今になって、基準値の数百倍の炎症マーカーの数値を見て(今の病院は、検査結果の全数値を後でプリントアウトして渡してくれる)、ああ、そういう事だったのか、と理解した。


2日寝込んで、全く調子が良くならなくて、近所の病院で診察を受けて直ぐに、「うちでは無理です」と医者は苦笑いとも、緊張ともとれる表情を浮かべながら、救急外来の当番リストを調べはじめた。その病院の救急外来に着いたとき、意識ははっきりしていたが、ストレッチャーに問答無用に寝かされ、心拍センサーを付けられ、服を着替えさせられた。意外な、気分しかしなかった。救急救命センターロゴが入った濃いブルーのスクラブを着た、ボブヘアーのスタッフがIDカードを僕の目の前 20cm に突き出しながら、「医師のXXです」と意識を確かめるように言ってきた時、つまりこれはER的な所に運び込まれた、そういう立場なんだな、と初めて認識したのだった。

CT検査から病室に運ばれる時、すれ違った医師は「患者コードブルーで来てるんで、終わったらそっち回ってくれる?」と検査技師に話しかけていた。そういうやり取りの、現場なんだなぁ、と流れていく天井を見ながら考えた。コードブルーって何だっけ?ヘリコプター?


あとは、点滴と天井を見ている日々が続いた。

点滴の中でも輸液は不思議で、このおかげで喉も渇かないし、腹も減らない。何も食べず何も飲まず、命は続く。それでも、実際には人は食べなければ、結局は死んでしまう。ある日、「見通しはまだ分かりませんが、食事を出すことにします」と医者が宣言するように言った。救急救命の時から面倒を見てくれているボブヘアーの彼女は、治療方針同意書を見ると肩書きは研修医となっていた。立派なものだ。

最初に、いわゆる「重湯」と呼ばれる米の香りのする湯を飲んだとき、俺は治る、という漠然とした気分が確信になった。人間は、食べて生きる。結局、生きることは食べる事だ。周りには、重い病気で入院している人が多かったのだけれど、見ていると、食える人は、というかなんとしても、一口でも多く食べる、という姿勢の人は実際に回復していく。そうで無い人は、病状が進捗しないように見えた。

重湯はお粥になり、パンが出て、焼き魚が出てきて、意外な事に漬物まで付いてきた。「まあ、味はあれでしょうけど」と言うドクターに、「いや、結構うまいですよ」と言うと、怪訝そうな顔をしていた。まともなものが食べられるようになってからの回復は早く、そこから2日で、退院した。


今は、まだ飲みに行きたいとか、そんな気分ではまるで無いのだけれど、普通に食事をして、だいたい普通に生活をしている。道路工事とかじゃなければ、仕事も大丈夫ですよ、とドクターは言っている。今は、ローカーブとか、そんな事は気にしないで、沢山飯を食う。それが、生きものの本質なんだ、と今さら思い知ったのだ。

ビリヤニ原理主義

Photo: “Mutton biryani at SAHIFA KEBAB & BIRYANI in Roppongi.”

Photo: “Mutton biryani at SAHIFA KEBAB & BIRYANI.” 2019. Tokyo, Japan, Apple iPhone XS max.

東京で一番うまいビリヤニが有る、そう言われてインド人に連れてこられた。それが、この店の最初だ。

六本木駅から、ミッドタウンに向かう道すがら、こんな所にインド料理屋が有るなんて思いもよらない、そんな場所にある。

ビリヤニは、恐ろしく面倒な料理で(一度自分で作ってみて、二度と作らないと心に誓った)、出す曜日が限られる店や予約限定の店、そもそもビリヤニをやっていない店も多い。しかし、この店の名物はビリヤニであり、予約無しでいつでも注文することができる。選択肢はチキン、マトン、ベジタリアン。このうち、マトンが我々のビリヤニ像に対する期待値に最も近い。量は、とても多いので一人一皿は止めた方がいい。前菜は控えめに。ビールは1杯ぐらいにしておきたい。


出てきたビリヤニの見た目は、これと言って特徴が有るわけではなく、生タマネギが鎮座してぶっきらぼうな感じ。でも、一口食えば分かる。この店のビリヤニは、日本の他の店で食べるのと全然違う。誰かが言った感想、「土食ってるみたい」というのが、多分一番核心に触れている。

口に含んだ、一塊のビリヤニから、とんでもない量の情報が流れ込んでくる。基調を成しているのは、ホールのカルダモン。それに、シナモンを先頭に多種のスパイスが折り重なって、混ざり合う。融け合ってはいない、混ざっている。食べものから新しい情報を摂取する、という感覚に直面したとき、これが果たして食べものなのか、飢えを満たすために食べているものなのか、より高位の何かなのか判然としない感覚に包まれる。

美味いの?と訊かれて、美味しいです、と即答することは難しい。なぜなら、美味い、不味いという今までの尺度には絶対に並ばないタイプの食べものなのだ。凄い、というのが素直に出てくる感想。


それにしても、このビリヤニというものは、食べられる部分と食べられない部分(シナモンの木とか)が混在していて、とても食べ辛い、何故だ。と思えば、インド人が実演する手で食べるやり方。なるほど、指で触ると可食部と不可食部がよく分かり、口に運ぶ前により分ける事ができる訳か。そして、下に敷いてあるバナナの葉は、その上で指を使って食べるときに、飯をうまく滑らせる効果が有るのだという。

量が多いので用心して頼んだマトンビリヤニ1皿ではどうにも足りない、で、ベジタリアンを追加。その味は、単にマトンビリヤニから肉を抜いた、という代物では無かった。野菜とスパイスとギーで、ゼロから構築された全く別の料理になっている。その上で、肉が使われていない穏やかな味。驚くことに、こっちの方が「美味しい」という概念には近い気がする。

とにかくこの料理については、未知な事が圧倒的に多い。そしてビリヤニがある種の中毒的な食べもので有ることは、こうして平成最後の記事を心穏やかに書いているにも関わらず、胃の腑からビリヤニを求める声がする事からも、明らかだ。

3月10日と3月11日

3月。朝からBBCでは、人類史上最大規模の都市無差別爆撃である、東京大空襲をくり返し取り上げていた。当時、膨大な遺体の仮埋葬場所として使われた都内の公園には、今、美しく桜が咲き誇っている。


東京大空襲はなぜ10万人超の死者を出したのか。あの当時、東京の空襲は予告されており、空襲される事がわかっていた。木造建築が大半を占める居住地域に焼夷弾が落ちれば、極めて大規模な火災が発生することは、既に日本側でも科学的に予測されていたという。

しかし、首都東京の住民を全て疎開させることは、戦争の継続という観点において実質不可能な選択肢とされた。だから、疎開は厳しく制限され、東京から逃げることは困難だった(経済的な面からも、そして同調圧力的な部分からも困難だっただろう)。当時の防空法は(そういう法律が存在した)、空襲下に於いて民間人が避難することを禁止し、防火活動を強制した。例えば、空襲にあったロンドンでは地下鉄は防空壕に使われたが、当時の東京の地下鉄を空襲時の避難に使うことは禁止された。そのあたりの話は、「防空法」に詳しい。(最後のまとめのあたりで、突然アカデミックな検証というバランスが崩れて、妙な左翼本になってしまっているが、主な内容には読む価値がある。)

10万余の都民は、そうした愚かしい防空戦略の犠牲になったのだ。戦争が悲惨だからそういう犠牲が出るのではない。愚かしい政策によって、悲惨な犠牲が出るのだ。戦争に巻き込まれるのはごめんだが、その中で愚かしい政策の犠牲になるのはさらに御免被りたい。


疎開、という事で言えば、ごく最近にも僕たちは大きな選択を迫られた。

3月11日の地震と、それに続く原発事故。あれから8年の年月が流れ、今見れば東京はオリンピックに向けて空前の建設ラッシュを迎えている。あの日から続く数週間の、閑散とした東京で、ここまでの復興を予想することは困難だった。結果としては、東京を遷都する必要は、無かったようだ。

しかし、あの当時、外資系企業の中では、非常事態として従業員及び家族を西日本地域に移動させるプランを現実のものとして検討していた所もあるし、実際にある期間、関西でのオペレーションに切り替えていた企業も存在する。

果たして、東京が本当にダメだったら、我々は理性的に東京を捨てるプランを実行することが出来ただろうか。それとも、この場所に留まって更に甚大な被害を出すことになっただろうか。74年前の日本が出来なかった決断を、現代の日本は出来たのだろうか。できなかったのではないか、それがあの時の空気から感じた、僕の感想だ。