Audrey Tang

Photo: “Street corner.”

Photo: “Street corner.” 2016. Tainan, Taiwan, Richo GR.

NYCのタクシーのリアルタイム利用状況のオープンデータをサブスクライブして、ちょっと待って、BigQueryの中を見ると早速データが貯まっている。乗車時間、距離、料金、etc..。そりゃ、神になったような気分になるだろう。こんな風に人の生活の有り様を、遙か彼方から俯瞰して見ることができれば。データを持つものが神だ、という意味が体感として分かる。笑みだって、こぼれるかもしれない。

その笑みが、左右非対称に歪んでいない事を、望みたい。


少し前に、台湾のデジタル大臣であるAudrey Tang(唐鳳)のセッションを聞いた。僕はそれまで、マスク分配のシステムを作った天才、という薄っぺらいメディアでの紹介以上の事は知らなかった。しかし、内容はとても深くて、彼女の主張は、ネットの力のあまりの悪逆非道ぶりにうんざりしかけていた僕に、未来への希望、みたいなものを感じさせてくれた。

ネットの、好ましい方向への力の使い方。技術によってDemocracyを進化させるという意志。この人は世界を変える、それも良い方向に。オープンソースとかそういうものの、本当の意味と力を、初めて理解したような気がした。


Audreyの大臣としてのjob descriptionはこのようなものだと言う。

When we see “internet of things”, let’s make it an internet of beings.
When we see “virtual reality”, let’s make it a shared reality.
When we see “machine learning”, let’s make it collaborative learning.
When we see “user experience”, let’s make it about human experience.
When we hear “the singularity is near”, let us remember: the Plurality is here.

AIは中国のように独裁で規制がない方が効率的で進化が早い、などと言う事を軽々しく口にする、思想の無い薄っぺらいどこかの専門家などとは違う。個々人の多様性と、プライバシーと、協働を尊重する事を、オプションではなくて出発点にしているのだ。

それにしても、非英語圏のビジョナリーは世界からいかに見えない事か。(Audreyはもちろん英語を話す、下のYouTubeで観られるが、かなり早口だ)COVID-19の対応で台湾が世界的に注目されなければ、Audreyの名前もここまで広まらなかっただろう。しかし、アジアにいる僕には逆にメリットがあるとも思えるようになった。Audreyのような、非西欧圏に生まれたビジョナリーが、未だ沢山居るはずなのだ。

Double Big Mac 2020 – AKA Mega Mac 2007

Photo: “Double Big Mac - AKA Mega Mac”

Photo: “Double Big Mac 2020 – AKA Mega Mac 2007” 2020. Tokyo, Japan, Apple iPhone XS max.

Slackのチャットで、成城石井で最近見つけたうまいものを晒し合っていると、むしろマクドナルドが無性に食べたくなってきた。ジャンク上等。

浅ましくも、ビッグマックのクーポンが存在するのか、念のためアプリを起動すると、倍ビッグマックがレコメンドされてくる。倍?今なら100円プラスで肉を倍にできるとの事。つまり、ビックマックの肉を4枚に出来る。おまけに、今ならポテト全サイズが150円で、野菜をバランス良く摂取することもできる。


夕方のマクドナルドはそれなりに混んでいた。聞くとも無く周りのオーダーを訊いていると、倍ビッグマックは人気だ。単品でビッグマックとポテトを包んでもらって、いそいそと持ち帰った。

姿見えぬ熟練クルーが作ったと思しき倍ビッグマックは、なかなかの組み立て具合だ。早速食べてみると、これは、ビッグマックのファンは食べた方がいい、という感想。あのパサパサの肉感がさらに増している感じで、できればソースは増やして欲しかったが、トータルで考えるとタンパク質をより摂取出来るので栄養バランスが改善されている。はず。

で、ふと思ったのだが、これってメガマックでは無いのか?2007年に、食べた記録があるのだ。僕が覚えていなくても、このWebサイトが覚えている。

世界がフィクションだったら、というよりはフィクション。

Photo: “Gate.”

Photo: “Gate.” 1995. vatican city, CONTAX T2 Carl Zeiss T* Sonnar 2.8/38, Agfa

2018年にホモデウスが一気に流行って、読んだ人も沢山居たと思う。日本未翻訳の時に英語版で(元はヘブライ語で書かれている)半分ぐらい読んでほったらかして、後で日本語版で読み通した。正直、何が書いてあったのかは、ほぼ覚えていない。著者のユヴァル・ノア・ハラリはイスラエル国籍なのに、ユダヤ教を思いっきり揶揄していたりして、度胸のある人だなと思ったぐらいだ。


COVID-19で暇なので、TEDをなるべく見るようにしていたりして、たまたまユヴァルが出たもの(What explains the rise of humans.)が目にとまって、それはとても面白かった。この動画の中での「人間はフィクションを信じる力でこの世界を築いた」(正確には、例えば”And as long as everybody believes in the same fiction, everybody obeys and follows the same rules, the same norms, the same values. “みたいな言い方)という主張が、ずっと気になっている。

そう、民族とか、宗教とか、国家とは、それは壮大なフィクションではある。そして、近年、特に21世紀に入ってから、そのフィクションは、急激に書き換えられたり、無効になったり、新しいフィクションが生まれたりしている気がする。そして、その状況の中では、フィクションをアップデート出来るヤツだけが、生き延びられるのだろう。

最近、「変化に対応できる生き物だけが生き残る」という、ダーウィンが言っていない言葉を、誤って引用をする人が沢山居て、それはきっとこの訳の分からない不合理な言葉に、皆が魅力を感じるからなのだ。言葉の是非はさておき(生物学的には意味不明)、世界に変化があることは確かで、それをどう受け取ったら良いのか皆、不安なのだ。


その混沌とした状況に叩き込まれた我々が出来ることは、エラを生やしたり、鱗を装備したりする事では無いだろう。人が生き残る術は、ユヴァルのアイディアを借りれば、フィクションをアップデートするしかない。それは変化への穏やかな適応ではない、信じるものを変える、宗旨替えだ。

そう考えると、日本人は、そういうのは得意だったんじゃないのか、とも思う。第二次世界大戦の敗戦後に、あっさり宗旨替えに成功したのは、壮大なフィクションのアップデートだった。しかし、その後のアップデートはあまり芳しくなく、一億総中流の夢も、歴史上の特異な一時代として終わりそう、あるいは終わってしまったように見える。


直近の状況を見れば、COVID-19は、色んなフィクションを過去のものにしてしまった。しかも、それに代わる新たなフィクションは、あまりにも分断されていて、「社会」と呼べる程の集合を生み出すことができない。

そんな風に考えると、どうも心楽しい気分にはならないが、しかし今の混沌を理解する助けにはなる気がする。そして、自分の外界の変化はさておき、自分自身のフィクションをアップデートする事で、もっとよい事があるんじゃないか、と考えてみたりするのだ。

(その後、「21世紀の人類のための21の思考」を”聴いて”みたが、その言説は、あまりにも枝葉を無視して歴史をつなぎ合わせている、と僕は感じた。)