「木の枝で凍えて落ちる鳥は、惨めさを知らない。」
というフレーズを、いつのまにか僕は書き留めていて、それがいったい何を出所にするものなのか、google 先生に訊いても分からない。
意味も果たして、分かっているだろうか。でも、何となく惹かれる、忘れがたい言葉。
カテゴリー: 思いつき
五月蠅いマスター
カウンターで独りで飲んでいる。
良い店なのだが、一つだけ困ったことがある。マスターが五月蠅いのだ。まだ 30代中盤だと思うが、くだらない蘊蓄だの、勝手な解釈だのをえんえんとしゃべっている。でも、他に選択肢もないから、来てしまう。
僕は、もう本当に放っておいてほしくて、「独りで飲むときは、会話なんかしないで、ゆっくり飲むのが良いんですよ」としゃべりやまない彼に言い放つ。あっちに行けと。彼は、我が意を得たと言わんばかりに頷いて、「そうそう、そういう時は、本でも読んで飲むのがいいんですよ。例えば、村上春樹みたいな、ああいう内容の無いバカな本」
そのとき、僕が持っていたのは、村上春樹の「風の歌を聴け」で、よっぽど、「これか?」と取り出してやろうかと思った。
その店長も、どこかにとばされてしまい(雇われだったのだ、実は)、今は静かな店になっている。だから、安心して、揚げたマッシュルームを食べたり、ビールを飲みに行ったりすることが出来るというわけだ。
※写真を追加。文章の店とは違う、店です。(2020/8/22)
小津安二郎 DVD ボックス
小津安二郎 DVD ボックスを買った。
司馬遼太郎は紀行文 “アメリカ素描” の中で、アメリカを「文明に寄って成り立つ国」と定義した。アメリカ合州国は、暗黙の文化ではなくて、明記された文明がそのカタチをつくる人類の歴史上初めての国家である、というのである。僕はこれ程までに簡潔に、そして的確に、アメリカを説明した文章を他に知らない。そして、その文章を読んだ瞬間、不意に小津の映画のシーンが思い出され、同時に、小津作品の魅力の場所というか、美しさの源のようなものが瞬時に理解されるような気がしたのである。
小津の作品は、日本の「文化」が、「文明」にその場所を譲り渡していこうとする時代を描いている。そして、その足許は、ハリウッド的な「文明」の側にあるのではなくて、失われていく「文化」の側にある。その立ち位置から描かれる美しかった日本の姿に、我々はもはや追いつくことは出来ない。
小津の映画で日本を知った外国のとある映画監督が、スクリーンの上で恋い焦がれた場所「東京」にはじめて降り立ったとき、彼が感じたのは「自分はもう存在しないものを探しに来たのかも知れない」という思いであったという。
DVD ボックスの第一集には、有名な作品の多くが収録されている。中でも、僕が一番好きな作品が「秋刀魚の味」だ。筋は、娘を嫁がせる家族を描いている、書いてしまえばそんなところ。地味な展開と、地味なカッティング。しかし、台詞にも、筋にも、画にも、隙は全くない。アグファのカラーフィルムで撮られた、柔らかい画が、美しい。
秋刀魚の味は、小津監督の遺作となった映画である。キャスティングも、筋の運びも、小津作品の集大成のような作品で、ちょっとおかしくて、ちょっと 悲しい、でも安心して観ていられる良い映画。岩下志麻が凄く若い(綺麗ですよ)とか、水戸黄門がラーメン屋を演じているとか、まあ、見所はいろいろあるのだが、何が凄いって、秋刀魚なんて一つも出てきやしないのに、見終わると「ああ、これは確かに秋刀魚の味という映画だったな」と思ってしまうところだ。